大判例

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東京地方裁判所 平成4年(行ウ)79号 判決 1996年11月22日

原告 金景錫 ほか二三名

被告 国

代理人 浜秀樹 小濱浩庸 山田利光

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一原告らの請求

一  被告は、原告らそれぞれに対し、各金五〇〇〇万円及びこれに対する訴状送達の日(平成三年(行ウ)第二五三号事件及び平成四年(行ウ)第一五号事件につき平成四年二月一日、平成四年(行ウ)第七五号事件及び平成四年(行ウ)第九七号事件につき平成五年三月二四日)から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告は、原告らそれぞれに対し、別紙二の謝罪文記載のとおり誠意ある謝罪をせよ。

第二事案の概要等

一  事案の概要及び争点

本件は、太平洋戦争当時、日本国内の炭鉱等に労働者として動員され、作業中の事故等により死傷した者又はその遺族、現在でも消息不明の被害者の親族(以下「労働者原告ら」という。)、日本国内や南洋群島等に軍属として動員され、敵国の攻撃の作業中の事故等により死傷した者又はその遺族(以下「軍属原告ら」という。)、軍人として動員され、戦地において敵国の攻撃等により死傷した者又はその遺族(以下「軍人原告ら」という。)が、右各動員は被告によって強制的にされたものであり(以下「強制連行」という。)、それによって損害ないし特別の損失を被ったとして、原告一人につき五〇〇〇万円の損害賠償ないし損失補償及び謝罪を被告に求めている事案である。原告らは、いずれも大韓民国民であるところ、強制連行された者二五名(以下「本件各被連行者」という。)のうち二四名は朝鮮半島において、残り一名は日本国内においてそれぞれ平穏に生活していたところ、突然、被告によって強制連行され、労務・役務を強制されたあげく、死傷等に至ったと主張している。そして、原告らは、請求権の根拠(被告の責任原因)として、<1>不法行為に基づく損害賠償・謝罪請求権、<2>大日本帝国憲法(以下「明治憲法」という。)二七条に基づく損失補償請求権、<3>安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権、<4>国際法違反に基づく損害賠償・謝罪請求権、<5>国家賠償法一条一項(立法・行政の不作為)に基づく損害賠償請求権等を主張しているが、被告は、右各請求権の根拠に関する原告らの主張はいずれも主張自体失当であるとしており、その当否が主要な争点となっている。

二  前提事実及び損害等に関する原告らの主張及び被告の認否

別紙三「原告らの主張」及び別紙四「被告の認否」記載のとおりである。

三  争点(請求権の根拠)に関する当事者の主張の骨子

1  不法行為に基づく損害賠償・謝罪請求権について

(一) 原告ら

(1) 強制連行の違法性

被告が行った本件各被連行者に対する強制連行及びそれに続く労務・役務の強制等の行為(別紙三の第二の二)が国際法・国内法秩序に違反し、違法であることは、別紙三の第三記載のとおりである。すなわち、右強制連行は、日本が一九三二年に批准した強制労働条約に違反し、国際慣習法である奴隷の状態又は隷属状態におかれない自由の侵害であり、かつ、人道に対する罪に該当する。これら国際法規は、条約として批准されたものは、明治憲法下においては公布とともに国内法的な効力を生じ、国内法的な公序を形成する。国際慣習法についても条約に準じて考えるべきであり、その形成とともに国内法的な効力を生ずる。

強制連行は、形式的には国家総動員法、国民徴用令等の法律・命令に基づいて行われていたとしても、公序に違反し、違法である。また、本件各被連行者に対する強制連行は、警察官や地方行政組織である面の職員が本件各被連行者らを騙したり脅したりして行ったものであり、右法律・命令にすら違反し、違法である。

国家が国際法規に違反した行為を行い、そのことによって個人に損害を加えた場合、個人が国家に対して直接損害賠償請求権を有するという国際法的な法的確信が形成されており、これとともに、かかる国際法規が国内法的な公序を形成し、これに対する違反が国内法的にも違法評価を受ける以上、民法七〇九条に基づき、損害賠償請求権が発生する。

(2) 国の権力的作用に対する民法七〇九条の適用

明治憲法下においては、国の公法的行為を権力的作用と非権力的作用とに分け、権力的作用による個人の損害については私法が適用されず、国は責任を負わないという「国家無責任(無答責)の法理」が妥当するとされた。しかしながら、国の権力的作用による個人の損害についても、不法行為責任を肯定したと思われる大審院の判例(大審院民事判決昭和七年八月一〇日・法律新聞第三四五三号)もあったし、当時は少数説ながら、解釈論として「国家無責任の法理」に対する有力な批判が存在した。「国家無責任の法理」は、英米法の法諺にいう「国王は悪をなし得ず」の法思想に基づくもので、「切り捨て御免」式の絶対主義時代の遺物であって、日本国憲法下における裁判所がこのような法思想に安易に寄り掛かることは許されないはずである。裁判所としては、当時の判例に従えば足りるのではなく、当時の法令の解釈を現時点でやり直すべきであって、国家の権力的作用の不法行為については、法律に特別の規定がない限りは民法の適用を原則とする解釈・学説に依拠して判断すべきである。国家賠償法(昭和二二年一〇月二七日公布・施行)附則六項は、「この法律施行前の行為に基づく損害については、なお従前の例による。」と規定しているが、これは、民法の不法行為法に基づき損害賠償請求権を有すると解釈することができる。

(3) 結論

以上のとおり、被告は、国際法違反という故意(少なくとも過失)ある違法行為により、原告らの権利を侵害し、これによって原告らに対し別紙三の第二項に記載のとおりの損害を生じさせているから、民法七〇九条(民法七二三条)の不法行為損害賠償請求権に基づき、請求の趣旨記載の損害賠償及び謝罪を求める。

(二) 被告

明治憲法下においては、国の権力的作用による個人の損害については私法が適用されず、国は責任を負わないとされていた。そこで、行政裁判法一六条も、「行政裁判所ハ損害要償ノ訴訟ヲ受理セス」と規定して、行政裁判所へ国家賠償訴訟を提起する途を否定していた。また、旧民法制定の際に、国の権力的活動については民法に基づく国家責任が否定され、司法裁判所に対する国家賠償請求訴訟を提起する途も否定された。すなわち、行政裁判法及び旧民法が公布された明治二三年(一八九〇年)に、公権力の行使については、国は損害賠償責任を負わないという法政策が確立した。そして、大審院の判例は、権力的な作用に関する事項については、国の損害賠償責任を否定するという態度で一貫しており、最高裁判所も右責任を否定している。

したがって、本件においては、被告の原告らに対する不法行為に基づく損害賠償責任は存しないから、原告らの主張は、主張自体失当である。

2  明治憲法二七条に基づく損失補償請求権について

(一) 原告ら

(1) 損失補償の趣旨は、国家の行為によって個人に対し特別の犠牲、損失を与えたことに対する填補であると解すべきであるから、国家の行為が適法行為でなければ損失補償が認められないわけではなく、適法・違法とは無関係であると解すべきである。確かに、近代の諸国家においては、<1>適法行為に基づく損失補償と<2>違法行為に基づく損害賠償とが沿革的に別個のものとして発達してきたが、今日においては、<3>適法な行為に基づき不法な結果を生じさせた場合、官吏が過失なくして不法な結果を生じさせた場合などについて、その損失・損害の填補・救済を否定すべき理由は見当たらない。日本国憲法の成立により、<1>と<2>が立法的に解決されたことから、<3>についての救済の理論構成が展開され、「損失補償は適法行為に対する補償でなく、適法・違法を問わず公益上の必要による特別犠牲に対する補償であり、違法無過失行為についても損失補償を認めるべきである。」といった学説が提唱されており、その見解は、明治憲法下においても妥当するものである。国家無答責の原則から<2>の方法によって救済することが困難な場合であるとしても、<1>の延長として救済を否定する理由はない。すなわち、違法行為に基づく過失を理由とす損害賠償が困難であったとしても、適法・違法を問わず、「特別犠牲」を理由とする損失補償は可能であると解すべきである。

(2) ところが、明治憲法二七条は、財産権の保障及び公的収用権を定めていたが、日本国憲法とは異なり、補償の定めをおかなかった。しかし、補償の定めがないからといって補償を必要としない趣旨ではなく、財産権の保障との調節の観点から、公的収用権を行使する場合にはそれに見合った補償を不可欠とするという近代人権宣言における考え方が明治憲法にも当然あてはまるはずである。有力な学説も、補償が単なる恩恵としてではなく、正義公平の見地から特別の犠牲に対する調節として認められるものであり、正義公平の原理は憲法上の原理として承認されなければならないのであるから、公益のためにする特別の犠牲に対しては相当の補償を与えることが明治憲法の精神であり、補償について法律が規定をもうけていない場合であっても、条理として、補償の認められるべき場合があるとしていた。この点、明治憲法施行当時に、知事が国の機関として歌舞練場を進駐軍専用のキャバレーに転用するよう要請したことによる損失について、正義と公平の観念を基礎として補償すべきであるとした判決例(東京地裁昭和三三年七月一九日判決・下民集九巻七号一三三六頁)があるし、最高裁判所は、日本国憲法に関してではあるが、旧河川付近土地制限令違反事件において、特別の犠牲を課したものと見られる場合は、補償請求に関する規定がなくても、直接日本国憲法二九条三項を根拠として補償請求することができるとしている(最高裁昭和四三年一一月二七日大法廷判決・刑集二二巻一二号一四〇二頁)。

(3) 損失補償制度の歴史及びその実質的根拠である正義公平の理念からすると、補償請求の要件については、日本国憲法の解釈がそのままあてはまる。すなわち、日本国憲法二九条三項に基づいて正当な補償を要するのは、特定の人に対し当該財産権の受忍すべき社会的拘束以上の特別の犠牲を課す場合であって、特別の犠牲といえるかどうかは、侵害行為の対象が広く一般人か特定人ないし特別の範疇に属する人かという形式的基準と侵害行為が財産権に内在する社会的制約として受忍すべき限度内か、それを超えて財産権の本質的内容を侵すほど強度なものかという実質的基準を総合的に考慮して判断されるべきである。

ところで、日本国憲法二九条三項が規定しているのは財産に対する補償であるが、憲法の価値序列として財産よりも上位にある生命・身体を財産権より不利に扱うことが許されるとする合理的根拠はないのであるから、同項の規定は生命・身体に対して特別の犠牲が課された場合に類推適用されると解すべきである。そして、損失補償制度について同じ価値体系にある日本国憲法二九条において、「生命・身体の自由に対する損失補償」請求権が演繹できる以上、明治憲法二七条においても右請求権が演繹できるのである。

(4) 本件においては、原告らは、別紙三の第二記載のとおり、韓民族でありながら、旧日本帝国主義の植民地支配下で、他民族たる日本民族の独立、繁栄という被告の公共の用のために力ずくで、あるいは欺罔により強制連行され、軍人、軍属、労働者として徴兵、徴用された。そして、その結果、韓民族だからという理由だけで悲惨な差別的処遇にあったことはもちろん、生命を失い、あるいは生涯瘉ることのない傷を負い、労働能力の多くを喪失し、夫や父を失い、生計維持に困窮するなど、人格権上あるいは財産権上多大な損失を被った。これは、韓民族である原告らだけが被った、受忍限度を超えて人格権や財産権の本質的内容を侵すほど強度の損失である。したがって、原告らは特別の犠牲を課されたということができる。

(5) 以上から、原告らは被告に対し、明治憲法二七条に基づく損失補償として請求の趣旨記載の金員の支払を求める。

(二) 被告

(1) 損失補償とは、国の適法な公権力の行使によって加えられた財産上の特別の犠牲に対し、全体的な公平負担の見地からこれを調整するためにする財産補償をいうところ、原告らが求めているのは、違法行為に基づく損害賠償にほかならない内容のものであって、損失補償の範疇に属さないものである。

(2) 明治憲法二七条は、公益のためにする所有権等の財産権の制限につき、一般的に補償を与えるべきであるか否かに関しては、明文の規定を欠いており、同条二項の規定によれば、公益のためにする必要な処分は、法律をもって定められるべきことを要件とするにとどまり、法律をもってすれば、いかなる定めも不可能ではなく、所有権の侵害に対し補償を与えるか否かは、法律によっていかようにも定めることができ、損失補償請求権は法律に規定のある場合にのみ認められると解されており、明治憲法下の裁判例も一貫してそのように解していたのである。そのような結論は、明治憲法下の損失補償については、法律に定めのあるものを除き裁判上の請求手続がそもそも存在しなかったのであるから、もともと同憲法下における訴訟制度の予定するところでもあったのである。

(3) 生命・身体の自由に対する損失についての補償は、もともと日本国憲法二九条三項においても全く予定していないところである。すなわち、同条は、全体として、我が国における国家存立の基礎である経済的秩序について調和のとれた私有財産制限のあり方を規定するとともに、国民が現に有する財産権の不可侵をも規定していると解されるのである。したがって、同条三項は、財産権に関する規定であり、本来、生命・身体の被害とは関係のない規定というべきである。そして、財産権における損失は通常取引価格があり、精神的損失を含まず客観的評価が容易であるのに対し、生命・身体の被害は取引価格がなく、精神的損失を含み複雑多様であること等、財産権と生命・身体とは全く類似性がないばかりか、むしろ本質的に異質のものであるから、同条の中から本来、私有財産を対象としている同条三項のみを取り出して、これを生命・身体に対する損失に類推適用する余地はないというべきである。

(4) したがって、原告らの明治憲法二七条に基づく損失補償請求は、主張自体失当というべきである。

3  安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権について

(一) 原告ら

(1) 強制連行と安全配慮義務

安全配慮義務は、ある特定の法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して信義則上負う義務をいうが、その適用場面・発生根拠である特別の社会的接触関係が多種多様であることから、その内容・性質については、具体的な社会的接触関係の性質・内容に即して各事案ごとに決せざるを得ない。本件のように、強制力をもって本件各被連行者の身柄を拘束して強制的に連行し、強制力をもって完全な支配従属関係に置いて各種業務ないし公務に従事させた場合においては、本件各被連行者が自ら生命・身体・健康等に対する危険を避けることもできない状態に置かれていたことからすると、被告は、強制連行に伴う強制力行使に本来的に内在する義務として、本件各被連行者に対し、強制連行に基づく支配従属関係が継続している間、本件各被連行者の生命・身体・健康等を自ら侵害せず、かつ、他人をして侵害させないという内容の安全確保そのものを目的とする結果債務たる絶対的な安全配慮義務を負っていたというべきである。

(2) 安全配慮義務の主張立証責任

本件においては、右のとおり、被告は本件各被連行者の安全確保そのものを目的とする結果債務たる絶対的な安全配慮義務を負っていたものであるが、そのような場合の主張立証責任については、損害賠償を請求する側において、<1>安全配慮義務の存在事実(a特別の法律関係の存在、b安全配慮義務の抽象的内容)、<2>抽象的な安全配慮義務違反の事実、<3>損害の発生、右違反事実と損害発生との間の因果関係及び損害額の主張立証責任を負い、被告において、帰責事由の不存在、すなわち、<1>不可抗力、<2>本件各被連行者の故意・過失、<3>これらと同視すべき事由のいずれかを主張立証しない限り免責されないと解すべきである。

なぜなら、本件各被連行者との間で被告が負うべき安全配慮義務の実体的内容・性質は、単に危険防止のための最善の努力をすべき「配慮義務」としての手段債務や、相手方の安全確保のための万全の防止措置をなすべき結果債務ではなく、更に高度な生命・健康等を自ら侵害せず、かつ、他人をして侵害させないという結果を実現すべき結果債務であるから、本件各被連行者に被害が生じた以上、被告において真にやむを得ない事情がない限り免責を認めるのは妥当ではないからである。また、立証の負担の公平の観点からしても、被告が行った強制連行についての資料・情報は全て被告が独占しており、原告らの損害賠償を求める側はほとんど資料・情報を有していないこと(特に、本件各被連行者が強制連行中の支配従属関係下で死亡した場合には顕著である。)、さらに、敗戦後五〇年を迎え、被告に対する戦後補償を求める声が国際的に高まっている中、右のように資料・情報を独占する被告には、強制連行についての調査を行いその実態を解明した上、資料とともに調査結果を報告すべき国際法上の義務があるというべきだからである。

(3) 本件各被連行者に対する安全配慮義務違反

本件各被連行者に対する安全配慮義務違反の内容は、別紙五に記載のとおりである。

(4) 安全配慮義務違反についての予備的主張

主張立証責任に関する原告らの前記主張にかかわらず、安全配慮義務の内容を特定し、かつ、義務違反に該当する事実を主張立証する責任は、損害賠償を請求する側にあるという見解も有力であるので、原告らは予備的に、右見解に沿った安全配慮義務の内容及び義務違反に該当する事実について、別紙六のとおり主張する。

(5) 結論

以上のとおり、被告は、本件各被連行者に対する安全配慮義務に違反し、原告らに対し別紙三の第二項に記載のとおりの損害を生じさせているから、請求の趣旨記載の損害賠償を求める。

(二) 被告

(1) 主位的主張について

安全配慮義務違反を理由として損害賠償を請求する訴訟において、右義務の内容を特定し、かつ、義務違反に該当する事実を主張・立証する責任は、義務違反を主張する債権者側にある。また、安全配慮義務といっても、その内容は千差万別であるから、債務者(又はその履行補助者)がいかなる種類・内容の安全配慮義務を負担していたかを、具体的事実関係に基づいて特定して主張しなければならず、そうしなければ、不履行とされる債務の内容が特定しないこととなり、主張自体失当となる。本件についてみると、原告らは、主位的主張として、被告が、本件各被連行者に対し、強制連行に基づく支配従属関係が継続している間、本件各被連行者の生命・健康等を自ら侵害せず、かつ、他人をして侵害させないという内容の安全配慮義務を負う旨の一般的・抽象的な主張をするに止まっており、被告がいかなる種類、内容の安全配慮義務を負担していたかを、具体的事実に基づいて特定して主張していないのである。したがって、原告らの安全配慮義務違反の主位的主張は、請求原因事実の主張としては不十分であるといわざるを得ず、主張自体失当であるというべきである。

(2) 予備的主張について

ア 原告らは、訴訟の最終手段に至って、予備的主張として、本件各被連行者に対する安全配慮義務の内容を別紙六のとおり主張するに至ったが、被告の防御という観点からすると、時期に遅れた主張である。

イ 原告らの右主張は、安全配慮義務の内容を特定し、かつ、右具体的な義務違反の事実を主張したとはいえない。すなわち、安全配慮義務自体は、抽象的な概念(規範的要件事実)であるから、抽象的に安全配慮義務の違反があると主張するだけでは足りず、被害を受けたとされる者ごとに、結果の発生した具体的な状況を明らかにした上で、発生した結果との関係から、義務者がそのような結果を予見できたか(予見可能性)、どのような措置を講じていれば結果の発生を防止できたか(回避可能性)、そして、義務者と被害者との法律関係及び当時の技術やその他の社会的な諸事情に照らして、義務者に対し右結果発生の防止措置を採ることを義務づけるのが相当であるかといった点を判断するに足りる具体的な事実を明らかにする必要がある。この点につき、原告らの右主張は、右の観点からある具体的な事実の主張とは到底いえないのである。

4  国際法に基づく損害賠償・謝罪請求権について

(一) 原告ら

(1) 国際法違反に基づく損害賠償

人権の侵害、人道に対する罪は国際法の違反として謝罪を含む損害賠償の義務を生じることが確立された国際法の原則であることは、別紙三の第三の一、二で、本件各被連行者が、被告の関与により、軍人・軍属・労働者として強制連行され、奴隷状態に置かれた上、軍役・労役を強いられたことが、国際法ないし国際慣習法である、<1>奴隷の状態又は隷属状態に置かれない自由への侵害であり、<2>人道に対する罪に違反し、<3>強制労働条約に違反しており、それによって損害賠償責任が発生することは、別紙三の第三の四でそれぞれ主張したとおりである。

(2) 国際(慣習)法における一般慣行及び法的確信

ア 別紙三の第三の四2で主張したように、奴隷制に関する各種の条約の存在、奴隷制に対する国際機関の取組みに照らしても、一九三〇年ころまでには、奴隷の禁止が国際慣習法として確立していたことは明らかであり、このことから奴隷の状態又は隷属状態に置かれない自由ないし権利を侵害された個人は、国家に対して侵害賠償請求権及び謝罪請求権を有するとの一般慣行及び法的確信も成立していたと解すべきである。

イ 別紙三の第三の四3で主張したように、人道法の普遍的な諸基準を侵害した行為である「人道に対する罪」(ニュルンベルグ国際軍事裁判所條例六条c項及び極東軍事裁判所條例五条(ハ))の要件に該当する行為は、刑事責任のみならずそれによって生じた損害の補償を要するという民事責任を発生させるが、そのような補償責任は、少なくとも太平洋戦争の開始する一九三一年ころまでには、国際慣行・法的確信とともに国際的に国際慣習法として成立していた。

ウ 別紙三の第三の四4で主張したように、日本が批准している強制労働条約の存在により、強制労働に従事させられた個人が国家に対して損害賠償請求権を有するとの一般慣行及び法的確信が存したと解すべきである。

(3) 国際(慣習)法の国内法的効力

明治憲法下においては、公布された条約及び確立された国際慣習法が国内法的効力を有することは別紙三の第三の三で主張したとおりであり、このことは日本国憲法下においても異なるところはないというべきである。

(4) 個人の国際法における法主体性

ア 国際法における法主体は国家であるが、主権を奪われた国家は法主体ではない。国家の諸権限を保護国や宗主国に奪われた被保護国や付庸国は、その名称の如何を問わず国際法主体とはいえないのである。実質的に完全に植民地となった国家や征服により併合された国家も同様である。この点、朝鮮が、一九一〇年に日本に併合されて完全な植民地となり、一九四五年まで国際法上の主体を喪失していたことは明白である。

イ ところで、一般に個人はその属する国家を介して国際法に従うことになるから、個人がその属する国家を介してその法の目的を達することができる場合は、個人の法主体性を論ずる意味はないが、それが不可能な場合には個人を国際法上の法主体として位置付け、その利益の達成に必要な限度で国際法上の権利を付与しなければならない。そして、個人の法主体性が認められるということは、個人が国家の違法行為により損害を被った場合に直接国家に対して損害賠償請求ができるということを意味する。これは、国家間における違法行為について明文の規定がなくとも国家が当然損害賠償義務を負うのと同様である。

ウ 個人が直接国際手続によって、その権利を追及し、あるいは義務違反による処罰を課せられる場合に、個人の法主体性が認められることに異論はなく、国際裁判所への個人の出訴権、国際機構への個人の請願や申立て、国際手続による個人の処罰を定めた条約が存在するが、そのような条約はなお少数であり、しかも無条件に個人にその手続に訴えることを認めているのではなく、それに同意を与えた締約国の国民、あるいは一定の国際機構の職員の場合に限られているのが一般である。

しかしながら、個人の権利義務の存在が、国際手続の有無によって左右されたり、同一の条約でも国際手続を受託する締約国の国民個人又はその管轄下にある個人は国際法主体となり、それを受託しない締約国の国民個人又はその管轄下にある個人はそうではないというのは不合理であり、たとえ個人の権利義務の実現のための国際手続が規定されていなくても、個人に直接国際法上の権利義務が帰属するとみられる場合はかなりあると解される。例えば、人道に対する罪は、それが国内法に違反して犯されたか否かを問わず、また、その処罰のための国際手続の存否とは無関係に個人の犯す国際法上の犯罪とみなされているが、この場合には個人の法主体性は国際手続の存否にかかわらず認められるものである。

エ 結局、条約(国際慣習法)が実現目的とする個人の利益の性質、個人が所属する国家を介して利益の実現が図られるか否かを判断し、個人の国際法上の法主体性を判断すべきである。そして、個人の国際法上の法主体性が認められる場合には、国内裁判所は国際管轄権の行使を担当することになる。

(二) 被告

(1) 原告らが主張する国際法違反行為によって個人に損害を与えた者の所属する国家が個人に対して直接損害賠償等をすべき義務があるとの国際慣習法が成立するためには、第一の要件としてそのような一般慣行が必要であり、第二の要件として法的確信が必要である。しかるに、右慣行も法的確信も存在しない。すなわち、個人は、条約によって具体的に承認され、国際機関その他の特別の国際制度による救済手続が存在する場合のみ、国際法上の権利主体となり得、このような法的根拠、手続規定等が存した場合に、個人の他の国家に対する国際法上の損害賠償請求の主体性が認められた例はあるが、これらがない場合に、右主体性が認められた例は見当たらないし、前記のような国際慣習法成立の基礎となる一般慣行も法的確信も存しない。また、原告らは、右と同様の趣旨で、右国際法違反行為など重大な人権侵害がなされた場合、その被害者は相手方の属する国家に対し、個人として損害賠償請求権を認める国際慣習法が本件当時存在していた旨主張するが、かかる行為について、そのような一般慣行も法的確信も存在しなかった。したがって、原告らの国際慣習法違反に基づく請求も失当というべきである。

(2) 個人への金銭給付及び謝罪を請求する場合の請求原因としては、個人の金銭給付請求権及び謝罪請求権に結びつく主張をしなければならないが、原告らは、これをしていないから、原告らの強制労働条約に基づく主張はそれ自体失当である。

原告らの主張が強制労働条約を国際法として主張するというのであれば、原告らはこれについて国際法上の法主体性を有しないから、原告らの右請求はそれ自体失当である。また、同条約を国内法として主張するのであれば、同条約が国内において直ちに国内法としての規定として適用可能であることが必要であるのに、原告らの主張はこの点を何ら主張しておらず、しかも、同条約中に、金銭給付請求権及び謝罪請求権について、国内で直接適用される規定は全くないので、この点においても、原告らの請求はそれ自体失当である。

5  国家賠償法一条一項に基づく損害賠償請求権等について

(一) 原告ら

(1) 戦後補償立法における国籍要件の廃止義務

ア 被告は、戦傷病者・戦没者遺族等に対する援護を行うため、これまでに一三の戦後補償立法(戦傷病者戦没者遺族等援護法、恩給法、旧軍人等の遺族に対する恩給等の特例に関する法律、戦没者等の妻に対する特別給付金支給法、戦傷病者特別援護法、戦没者等の遺族に対する特別弔慰金支給法、戦傷病者等の妻に対する特別給付金支給法、戦没者の父母等に対する特別給付金支給法、未帰還者留守家族等援護法、未帰還者に関する特別措置法、引揚者給付金等支給法、引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律、平和祈念事業特別基金等に関する法律)を制定したが、右のすべての法律に国籍要件を設けた(ただし、戦傷病者戦没者遺族等援護法附則二項、恩給法九条、戦傷病者特別援護法四条三項、戦没者等の遺族に対する特別弔慰金支給法二条、戦傷病者等の妻に対する特別給付金支給法三条などのように当該法律中に国籍要件を規定したものと、旧軍人等の遺族に対する恩給等の特例に関する法律、戦没者等の妻に対する特別給付金支給法、戦没者の父母等に対する特別給付金支給法などのように当該法律中には国籍要件がないものの、それぞれの援用法に国籍要件が設けられているものがある。)。そして、旧植民地とされた朝鮮半島における「日本人」は、サンフランシスコ平和条約によって日本国籍を喪失させられ、戦後補償立法の適用を否定されてきた。

イ 国籍要件の日本国憲法一四条違反

同じ軍人・軍属としての戦没者・戦傷病者で、朝鮮人と日本人とで、その提供した役務やその受けた損害に違いはない。むしろ、朝鮮人は、日本の植民地支配によって「日本人」とされ、自国のためではなく他国である日本のために戦争の犠牲となったのであり、日本人よりもはるかに深い傷を負ったのである。このような朝鮮人被害者に対しては、少なくとも日本人と同等に、国の活動によって被った損害の填補をすべきであることは当然である。

また、戦後補償立法は、その根底において社会保障法ではなく、国家補償法である。戦争による被災は「国がその活動により」生じさせたものであり、戦争遂行目的のために、日本人を軍人・軍属として徴兵・徴用した行為、朝鮮人を軍人・軍属・労働者として強制連行し、兵役や労働に従事させた行為が、国の活動であることは当然である。戦後補償立法は、国がその活動により、個人に被らせた損失を填補することを目的とするものである。このことは、戦傷病者戦没者遺族等援護法一条や戦傷病者特別援護法一条に「国家補償の精神に基づき」と規定されていることからも明らかである。

戦後補償立法が、元軍人・軍属もしくはその遺族に対して年金等を支給する根拠は、国家が、個人に対して、過去に軍人・軍属として役務を提供させたことに起因する生命・身体・精神の損害に対して補償することにある。したがって、戦後補償立法の制定以前に国籍を喪失したか否か、戸籍法の適用を受けるか否かは、年金等を支給する根拠ではなく、過去における軍人・軍属としての役務の提供の事実とそれに起因する負傷等の事実の有無が問題なのである。同じように軍人・軍属として役務を提供し、それによって負傷した者を、現在の国籍の有無によって差別することに合理的な理由は全くなく、戦後補償立法における国籍要件は、日本国憲法一四条に違反する。

ウ 国籍要件のB規約二六条違反

B規約二六条は、法の下の平等を定め、「人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的もしくは社会的出身、財産、出生又は他の地位のいかなる理由による差別」をも禁止しているから、国籍要件を定めて外国籍の戦争犠牲者に対する補償を排除する戦後補償立法は、「国籍」による差別として、B規約二六条に違反する。

戦後補償における「国籍」に基づく別扱いに関して、規約人権委員会が判断を示した事件として、いわゆる「セネガル・ケース」がある。この事件は、イブラヒマ・ゲイエほか七四二名のセネガル人フランス兵が、フランスの軍人年金法の一九七九年改正により、その受ける年金支給額をフランス人元兵士よりも低額に抑えられたことについて、規約人権委員会に救済を求めた事件である。この事件について、規約人権委員会は、まず、「国籍」はB規約二六条に差別禁止事由として列挙された「他の地位」に該当すること、年金の問題であっても同条の適用を受けることを示し、次に、同条にいう「差別」に当たるか否かの判断は、当該区別が「合理的かつ客観的基準」に基づくものであるか否かに係るとした上、<1>「国籍」ではなく、退役軍人が「過去に提供した役務」こそ年金支給の根拠であること、<2>フランスと旧植民地の経済的・社会的状況が異なることは、国籍による別異の取扱いを正当化する根拠たりえないこと、<3>身元確認困難による年金申請権の濫用のおそれもまた、国籍による別異の取扱いを正当化する根拠たりえないことを示して、右国籍による区別に「合理的かつ客観的」な理由は存しないとして、右別異の取扱いがB規約二六条の禁ずる国籍による差別に該当すると結論づけた。結局、同委員会は、右別異の取扱いについて、B規約二六条違反を認定し、フランス政府に対して効果的な救済措置を講ずるよう求めたのである。

右判断からも明らかなように、本来「過去に提供した役務の対価」若しくは「過去に被った犠牲への補償」として支給されるべき補償について、国籍の有無によって適用・不適用を区別することに「合理的かつ客観的」理由がないことは明らかである。したがって、戦後補償立法における国籍要件はB規約二六条に違反する。日本は、選択議定書を批准してはいないが、右規約人権委員会の解釈は、B規約を適用する際の基準とされるべきである。それが、日本国憲法九八条二項の規定する国際協調主義にも合致する。

エ 以上から、国会には、戦後補償立法の国籍要件を廃止すべき立法義務が存在する。

(2) 補償立法義務

別紙三の第四の一ないし四記載の戦後補償の国際的潮流及び以下の日本国憲法の諸規定を総合すれば、解釈上、個々の国会議員に対し、侵略戦争・植民地支配により被害を受けた個人への戦後補償を行う立法をすべき義務が課されていることは明白である。

ア 日本国憲法前文

日本国憲法の根本規範の一つとみるべきカイロ宣言は、「第一次世界戦争の開始以後に日本国が奪取し又は占領した太平洋におけるすべての島を日本国からはく奪すること」、「満州、台湾および澎湖島のような日本国が清国人から盗取した全ての地域を中華民国に返還すること」、「日本国は、また、暴力および強欲により日本国が略取した他のすべての地域から駆逐される」、「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする」と明記しているから、明治以来の日本の侵略戦争、植民地支配を不法のものと認め、その結果の回復を要求している。

日本国憲法前文は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることのないやうにすることを決意」と規定しているが、これは右のような根本規範からみると、単なる人道主義的戦争否定ではなく、過去の侵略戦争、植民地支配に対する反省の表明であると解すべきである。侵略戦争、植民地支配を行ってきた日本が、それを反省し、「平和を愛する諸国民」から信頼されるためには、まず、侵略戦争と植民地支配の被害者に謝罪し、その損害を賠償しなければならないことは自明である。そのような意味で、日本国憲法前文は被告に対し、侵略戦争と植民地支配の被害者に対する謝罪と賠償を具体的内容とする「道義的国家たるべき義務」を負わせているのである。

右の「道義的国家たるべき義務」は、「国家の名誉をかけ、全力をあげて」達成されなければならないのであって、立法・司法・行政を通じた国政の最優先課題とされるべきであり、国会は侵略戦争と植民地支配の被害者に対し、前記のドイツ、アメリカ合衆国及びカナダの例に劣らない謝罪と賠償の立法を行い、謝罪と賠償の範囲や方法を特定する義務がある。

イ 日本国憲法九条

戦争を放棄する以上、戦争行為は不法であるとの先進的認識が表明されているのであるから、かつて引き起こした戦争により被害を被った人々に対して誠実に責任を取り、補償をしていくことを、同条が当然に義務づけているものといわなければならない。

ウ 日本国憲法一四条

平等原則は、かつて国家に忠義を尽くした(すなわち、侵略戦争に直接に加担した)日本人軍人・軍属にのみ戦後補償をすることを絶対に容認しない。平等原則により、国籍の有無を問わず、また、軍人・軍属であるか否かを問わず、一律に戦争被害を補償する立法が義務づけられていることは明らかである。

エ 日本国憲法一七条及び二九条三項

国家権力により生命、身体又は財産に対して侵害を受けた場合、その侵害が違法である場合はもちろん、適法であっても、特別の犠牲を強いられた場合には、国家はその補償をする義務があるのである。この精神からすれば、かつて侵略戦争で被害を受けた人々(とりわけ植民地支配を受けた人々)に対して補償を行う立法をすることは当然に要求されるところである。

オ 日本国憲法四〇条

刑事補償の趣旨からすれば、強制連行され、事実上の監禁状態下で強制労働を強いられた人々との関係で、補償立法をなすことが義務づけられるのは当然といわなければならない。

カ 日本国憲法九八条二項

前述した国際的潮流からすれば、もはや戦後補償をなすことは国際慣習法として確立したということができる。そうだとすれば、国際慣習法の遵守義務から、当然に補償立法義務が導かれる。

(3) 右各立法義務の懈怠

以上から、戦後補償立法を制定した時点から、国籍条項が日本国憲法一四条、B規約二六条に違反することは明白であって、唯一の立法機関である国会は、国籍要件を削除して、原告らに対して国家補償を及ぼすべき立法義務が存在していた。しかるに、国会は、戦後五〇年以上を経過した今日に至るまで、かかる国籍要件を一切削除しようとせず、朝鮮人の戦争犠牲者に対する救済を一切拒んでいる。また、国籍要件廃止義務及び補償立法義務の存在は、戦後補償の国際的潮流(とりわけ、昭和六三年のアメリカ合衆国及びカナダの戦後補償は、マスコミによって大きく取り上げられるところとなった。)からすれば、個々の国会議員が容易に認識できるところである。それにもかかわらず、未だ国籍要件廃止立法又は戦後補償立法をなそうとする動きは全く顕在化していない。したがって、現時点においては、各立法をすべき合理的期間を既に徒過しているというべきであり、少なくとも国会議員らの過失により、憲法上の作為義務に違背した立法不作為に陥っている。

(4) 行政上の不作為に基づく損害賠償請求権

日本国憲法及びB規約上、国籍要件削除の立法義務が明白であったから、内閣には、法案提出権(内閣法五条)を行使して、国籍条項を削除する法案の提出をする義務が存在していたし、現に存在している。

しかし、歴代内閣は、これを合理的期間内に適切に行使せずに放置した。この権限の不行使は、歴代内閣閣僚の少なくとも過失による違法行為である。

(5) 結論

以上から、原告らは被告に対し、国家賠償法一条一項に基づき、原告一人当たり五〇〇〇万円の支払を請求し、かつ、不法行為法(民法七二三条)に基づき謝罪を求める。

(二) 被告

(1) 国籍要件廃止義務について

ア 日本国憲法一四条は、いわば法の下の平等に関する一般的な規定であって、その文言上個々の具体的な立法の当否を一義的に提示するという体裁をとっていないことは明らかであるのみならず、<1>そもそも、戦傷病者戦没者遺族等援護法や恩給法等は、いずれも老齢、廃疾又は生計の担い手の死亡に対して、その本人又は遺族の生活を援助するという生活保障的性格をも有するのであり、現在の世界の実状においては、各自に対し、生活の保障ないし援助をするのは、それぞれの国民の所属する国家の責任においてなされることが国際間の基本原理として容認されていること、<2>日本国が、その主権に服さない外国人に対して一定の保護を与えることは、正に日本国政府が当該国の国内において日本国の主権を行使することにほかならず、直接的にその外国の主権を侵犯することになることからすれば、日本国憲法が、原告らのような日本国の主権に服しない外国人に対しても、日本国籍を有する者と同様の補償措置を当然に講ずることを予定しているとは到底いえないというべきである。

イ B規約は、二条一項で、「この規約の各締約国は、その領域内にあり、かつ、その管轄の下にあるすべての個人に対し、……いかなる差別もなしにこの規約において認められる権利を尊重し及び確保することを約束する。」として、当該国家の主権に服している者を対象としているのであるから、日本国政府が日本国の主権に服していない原告らに対して、このB規約によって権利補償の義務を負っていないことは明らかである。

(2) 補償立法義務について

原告らが挙げる日本国憲法前文、九条、一四条、一七条、二九条三項、四〇条及び九八条二項の諸規定を総合しても、日本国憲法が戦後補償をなすべき義務を一義的に明確に規定しているとは到底いえない。国会がいつ、いかなる立法をなすべきか、あるいは立法しないかの判断は、国会の裁量事項に属するのであって、仮に国会議員の立法不作為又は内閣の法律案の不提出が国家賠償法上違法であると評価される場合があるとしても、日本国憲法の一義的な文言に違反している場合に限られるところ、原告らが被ったと主張する損害は、一種の戦争損害であって、これに対する戦後補償は日本国憲法の全く予定していないところであり、憲法上はもとより憲法解釈上もこのような補償立法義務が存在するとはいえないものである。

(3) したがって、原告らの立法不作為に基づく国家賠償請求及び内閣の法律案の不提出に基づく国家賠償請求は、いずれも主張自体失当というべきである。

第三当裁判所の判断

一  原告らの請求は、昭和一五年から同二〇年までの明治憲法下で行われた本件各被連行者に対する強制力による動員、徴用について、当時の国内法によって損害賠償又は損失補償の請求権が生じていたとし(不法行為、損失補償、安全配慮義務違反)、当時の国際法(国際慣習法を含めて、以下「国際法規範」という。)によって個人から国に対する損害賠償請求権が生じていたとして(国際法違反)、あるいは、日本国憲法施行後における立法、行政の不作為の違法を理由として国家賠償請求権に基づき、慰藉料の支払及び謝罪を請求するものである。したがって、前者の各請求については、本件各動員、徴用等の行為当時、原告らの主張する損害賠償又は損失補償の請求権を生じさせる法令又は国際法規範(裁判規範)が存在し、その要件を充足することが必要となり、後者の請求については、日本国憲法の下において、原告らが主張する違法な不作為が存したかどうかが問題となる。

以下、原告らの主張を順次検討することとする。

二  不法行為に基づく損害賠償・謝罪請求権について

1  国家賠償法(昭和二二年一〇月二七日公布・施行)の施行前においては、一般的に国に賠償責任を認める法令上の根拠はなく、公法上の行為であっても非権力的作用については一般私法関係の規律に服させるべきものと解釈されていたが、原告らも指摘しているように、明治憲法下においては、国の公法上の行為のうち権力的作用による個人の損害については私法が適用されず、国は責任を負わないという国家無責任(無答責)の法理が妥当するとされていた。すなわち、権力的作用によって個人の損害が発生したとしても、民法の適用はなく、一般的に国の賠償責任を認めた法律もなかったことから、その損害について国の賠償責任を認めることはできなかったのである。この結論は大審院が一貫して判示していたところである(特許法による特許の附輿処分について大審院昭和四年一〇月二四日判決・法律新聞三〇七三号九頁、消防自動車の試運転中の轢殺事故について大審院昭和八年四月二八日判決・民集一二巻一一号一〇二五頁、印鑑証明事務について大審院昭和一三年一二月二三日判決・民集一七巻二四号二六八九頁、違法な租税の徴収及び滞納処分について大審院昭和一六年二月二七日判決・民集二〇巻二号一一八頁)。そして、当裁判所も当時の法令の解釈としては右大審院の判示を正当とするものである(最高裁昭和二五年四月一一日第三小法廷判決・民集三号二二五頁参照)。

確かに、右のような法制については、原告らが指摘するとおりの批判があったところであり、現に、日本国憲法一七条は、「何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。」と規定して、国家無責任の原則を全面的に否定して、国又は公共団体の損害賠償責任の根拠を明らかにし、この規定に基づき国家賠償法が制定され、これによって明治憲法下で損害賠償が認められなかった権力的作用についての救済が初めて図られることになったと解されるのである。しかし、明治憲法下においては、行政裁判所においても、「損害要償ノ訴訟」を受理できないものとされ(行政裁判法一六条)、国家の賠償責任を肯定すべき根拠法令がなかったのであるから、国家賠償法附則六項の「この法律施行前の行為に基づく損害については、なお従前の例による。」との経過規定に照らせば、現時点における解釈としても、本件各行為当時においては、民法七〇九条の規定によって、国がその権力的作用による損害について私人に対して損害賠償責任を負担するとの解釈を採用することはできないものというほかない(国家賠償法の右附則は、同法施行前の行為についていわゆる旧法主義を採用したものにすぎず、この規定が民法七〇九条適用説の根拠となるものではない。)。

そして、原告らは、その主張に係る強制連行が、公権力による制裁を背景とする国家総動員法(同法四条、三六条一号及び国民徴用令参照)、兵役法(同法一条、二三条、五四条、七四条以下参照)等の法律・命令に基づいて行われた強制というのであるから、国の行為として行われたとされる本件動員等の強制は権力的作用として行われたものであるというほかない。

2  この点について、原告らは、強制連行は、形式的には国家総動員法、国民徴用令等の法律・命令に基づいて行われていたとしても、公序に違反し、違法であり、また、本件各被連行者に対する強制連行は、警察官や面の職員が本件各被連行者らを騙したり脅したりして行ったものであり、右法律・命令にすら違反し、違法であると主張し、別紙三の第二の二においても本件各被連行者の動員が有形・無形の強制力をもって行われたことを具体的に主張している。

しかしながら、警察官や面の職員が右法律・命令に基づかずに本件各被連行者らを騙したり脅したりして行った場合には、官吏が公権力の行使に名を借りて行った職権乱用行為であって、もはや官吏としての行為とみることはできないというべきであって、私人の行為として民法上の責任が生ずる余地があるとしても、その故に国の行為を非権力的作用と解することはできず、また、官吏の行為の外形からこれを国の行為として扱うべきものとしても当時の法律・命令を根拠としてその責任を問うことができないことは既に説示したとおりである。

原告らの右主張は、国の施策として行われた行為が、その法律・命令の予定するものとはかけ離れた著しい違法を含むものであったことを指摘し、この違法による被害に対しては国として何らかの救済を図るべきであるとする主張として理解することができるが、明治憲法下において、国の民法上の不法行為責任を肯定すべしとの法解釈を導き出すことはできないのである。

3  よって、民法七〇九条による不法行為の主張は、その違法性について判断するまでもなく、理由がないというべきである。

三  明治憲法二七条に基づく損失補償請求権について

1  原告らは、損失補償の趣旨は、国家の行為によって個人に対し特別の犠牲、損失を与えたことに対する填補であり、明治憲法二七条の解釈上も、特定の人に対し受忍限度を超えるような「特別の犠牲」を課した場合は、損失補償が認められるべきであるとし、本件各被連行者は、韓民族でありながら、他民族である日本民族の独立、繁栄のために軍人・軍属・労働者として強制連行されたこと、連行後も日本人の軍人・軍属・労働者とは異なる差別的処遇を受けていたこと等から、本件各被連行者の死傷等の結果は、日本人の死傷とは質的に異なる「特別な犠牲」に該当すると主張している。そして、原告らの主張によると、本件各被連行者の死傷の原因は、必ずしも明確ではないが、<1>敵国の攻撃等によると考えられるもの(盧鳳南、朴章煥、崔相準、尹成模、鄭然守、朴貴福、厳大変、李啓成、原告陳萬述、丁奎洙、韓命愚)、<2>作業中の落盤事故や病気罹患によると考えられるもの(金景重、宋有福、盧玉童、白弘周、池丁山、金龍寛、李奇淳、原告全金、原告朴大興、南道熙)、<3>ストライキに参加したことを理由とする拷問、暴行によるもの(原告金景錫)に分けることができる(なお、今もなお消息不明であるとする劉鐘、洪淳祚及び李庚淳は右の区分に入れていない。)

2  しかしながら、既に説示したとおり、明治憲法下においては、権力的作用については、違法行為に対しても国は賠償責任を負わないものとされていたことに加え、原告らが指摘する明治憲法二七条は、「日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルルコトナシ」「公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」と規定していたものであるから、財産権についての損失補償についても法律に基づいて損失補償請求権が生ずるものとされていたというべきであって、明治憲法から直接の損失補償請求権が生ずると解することは困難である。右法制の下において損失補償が認められる場合と同様の事態に対して法が沈黙している場合に、条理によってこれを補おうとする学説が存したことは原告らの指摘するとおりであるが(<証拠略>)、右学説も明治憲法の下においては法律の規定を要することを前提として、法の沈黙が条理によって補充される場合があることを指摘するものであって、広く条理によって損失補償を拡張することが右法制度において許されていたと解することはできない。

3  また、原告が明治憲法二七条の解釈についても同様に解すべしとする日本国憲法二九条三項は、財産権を公共のために用いることができることを前提として、その正当な補償を規定するものであることは、その文言上、明らかである。そして、この損失補償制度が、公益のために個人に対して受忍限度を超える特別の損失を甘受させる場合に、これを全体の負担において補償せんとするものであることは原告らの指摘するとおりであり、「特別犠牲補償請求権」という講学上の概念によれば、かかる請求権の一場面ということもできる。しかし、右規定は、国民の生命、身体又は自由を公共のために用いることができることを前提とするものではなく、公共の利益のためにある個人に対して受忍限度を超える生命、身体又は自由の侵害という結果が生じた場合に、右憲法の規定の背後にある特別犠牲補償請求権に基づき補償措置を講ずべきときがあるとしても、日本国憲法の右規定そのものが生命、身体又は自由の侵害に対する損失補償を規定しているものではないのである(災害救助法二四条、二五条、道路法六八条二項、六九条、港湾法五五条の四等において非常災害時の民間人の協力を義務づけ、その労務の実費弁償が規定されているが、これも当該法律に基づくものであって、日本国憲法二九条三項が直接規定するところではないというべきである。)。また、一般に、戦争は国の存亡に係わる非常事態であり、そうした状況の下では、国民の生命、身体及び財産に関する戦争犠牲又は戦争損害は国民の等しく受忍しなければならなかったところであって、こうした戦争犠牲又は戦争損害に対する補償は日本国憲法の全く予想していないところというべきであるから、このような戦争犠牲又は戦争損害について、国が、いかなる範囲の者に対して、いかなる程度の補償を行うかは、基本的には、国民感情や社会・経済・財政事情、さらには、外交政策、国際情勢等を考慮した政治的判断を要する立法政策に属する問題であるというべきである(最高裁昭和四三年一一月二七日大法廷判決・民集二二巻一二号二八〇八頁、最高裁昭和四四年七月四日第二小法廷判決・民集二三巻八号一三二一頁、最高裁平成四年四月二八日第三小法廷判決・集民一六四号二九五頁参照)。なお、戦傷病者戦没者遺族等援護法は、国家補償の精神に基づき、軍人軍属等であった者又はこれらの者の遺族を援護するものであるが(同法一条)、この給付も、同法に基づくものであって、日本国憲法二九条三項が直接規定するところではないというべきである。

したがって、日本国憲法二九条三項に関する解釈をもって、明治憲法二七条に基づく本件損失補償請求の根拠とすることはできないものというべきである。

4  もっとも、原告らの主張する強制連行が行われた当時においては国民総動員及び徴兵という制度が存在し、国家の存続という目的のために国民の生命、身体又は自由が用いられるという事態が存在していたのであるが、国民は動員又は徴兵に応ずる義務があるとされ、動員又は徴兵に応ずることは特定の個人に対する特別損害とは理解されていなかったものというべきであり、その任務に従事していた間に生ずる各人の被害、損失は個別的ではあるが、広い意味での戦争犠牲又は戦争損害として、国の存亡に係わる状況の下における動員への協力義務及び徴兵義務に伴うやむを得ない犠牲であるとして、公用徴収に対する損失補償の対象とは理解されていなかったものというべきである。

したがって、明治憲法二七条に基づいて一般的に損失の補償請求権が生ずるものと解することはできないのである。

なお、原告らの被った損害のうち、前記<1>に記載のものは正に戦争犠牲又は戦争損害というべきであり、<2>、<3>又は消息不明の原告らに関するものについても、強制力を背景とする国策としての動員、徴用に基づく損失であるとの主張を前提とする限り、同様に解さざるを得ないのである。

5  原告らの身体及び自由への侵害並びにこれに付随する多大な辛酸は、韓民族でありながら、日本国民の独立、繁栄のために被った「特別犠牲」であるとの原告らの主張は、日本国民が等しく受忍を求められた右のような犠牲をいうものではなく、先の戦争においては総動員体制の下に日本国籍を有する者として扱われながら、様々な民族的差別に加えて、サンフランシスコ平和条約の発効によって日本国籍を喪失したために外国人として扱われ、戦後の扶助及び補償に関しては、動員、徴用された日本人と同様の補償、扶助を拒絶されていることの不当をいうものと理解することができる。

しかし、明治憲法下において損失補償請求権が発生していたというためには、当時、我が国の国内法によって原告らの主張する本件損失補償請求が許容されていたことが必要となるが、このような国内法の根拠が認められないことは既に説示したとおりであり、また、その主張が我が国の主権に服しない者に対して加えられた侵害であるとするなら、これを明治憲法が補償の対象としていたと原告らが主張する「特別損害」と解することは困難となるのである。

結局、兵役、労務への強制が他民族に対するものであるが故に特別損害となるとの原告らの主張は、自国民に対する法令の適用の外形をとりながら実質的に他国民への違法な侵害であったとの国際法上の責任を問うものであるか、あるいは戦後の扶助及び補償に関する取扱いの相違の不当をいうものであるとしても、明治憲法二七条を根拠とする損失補償請求権を基礎づけるものということはできないのである。

四  安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権について

1  安全配慮義務とは、ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して信義則上負う義務をいうところ、その成立が認められる法律関係が一様でない上、事故の種類・態様も千差万別であって、右義務の具体的な内容はそれが問題となる当該具体的な状況によって異なるものであるから、右義務の違反を理由とする損害賠償請求訴訟においては、右義務の内容を特定し、かつ、義務違反に該当する事実を主張・立証する責任は、義務違反を主張する請求者側にあると解すべきである(最高裁昭和五〇年二月二五日第三小法廷判決・民集二九巻二号一四三頁、同昭和五九年四月一〇日第三小法廷・民集三八巻六号五五七頁、同昭和五六年二月一六日第二小法廷判決・民集三五巻一号五六頁)。

2  この点、原告らは、被告が本件各被連行者の安全確保そのものを目的とする絶対的な安全配慮義務を負っていたと主張し、そのような場合の主張・立証責任については、損害賠償を請求する側において、具体的な安全配慮義務の内容及び義務違反に該当する事実を主張・立証する必要はなく、抽象的な安全配慮義務の内容及び義務違反に該当する事実を主張・立証すれば足りると主張する。

しかしながら、安全配慮義務違反による債務不履行の法的性質は、広い意味での不完全履行の一種と解されるところ、不完全履行においては、一応債務の履行はされたが、その内容に債務の本旨に従わない不完全さ(瑕疵)がある場合であり、瑕疵があるために履行の完全でないことが損害賠償債権の発生要件となるのであるから、債権者側でまず履行が不完全であった事実を立証しなければならないのである。

したがって、原告らの右主張を採用することはできない。

3  そこで、まず、主位的主張を検討するに、原告らは、被告が、強制連行に伴う強制力行使に本来的に内在する義務として、本件各被連行者に対し、強制連行に基づく支配従属関係が継続している間、本件各被連行者の生命・健康等を自ら侵害せず、かつ、他人をして侵害させないという内容の結果債務たる絶対的な安全配慮義務を負っていたところ、その義務に違反して、別紙五のとおり、本件各被連行者の生命・健康等を侵害したと主張している。

しかしながら、被告と本件各被連行者との特別な社会的接触の関係が、国の施策として法令に基づいて国民に課されたものであることを前提とすれば、戦争という国の存亡に係わる非常事態の下で成立したものであって、動員された軍人・軍属が危険な戦闘地域において役務に就かざるを得ないこと、また、動員された軍属・労働者の作業環境、安全設備及び安全教育が不十分な状態であることは、本件各被連行者に対する具体的な安全配慮義務の内容を特定する場合に当然前提としなければならないものであって、戦時下という当時の社会状況をも考慮すると、被告が採り得た結果発生の防止措置に限界があったことは明らかであって、原告らが主張するような結果債務たる絶対的な安全配慮義務を被告が負担していたと解することはできない。

原告らの主張が、被告が本件各被連行者に対して被告との支配従属関係に入ることを違法に強制したが故に、これによって生じた全損害について結果責任を負担すべしとするものであるとすれば、これは不法行為による身体、自由の侵害が生じた場合に更なる損害の拡大を回避すべく、右不法行為の結果としての損害に対しては全面的な賠償義務を負担すべきであるとの不法行為の主張にほかならず、安全配慮義務の内容をいうものではないというべきである。また、一定の継続的社会的関係の成立に強制の契機があった場合であっても、成立した支配従属関係に内在する安全配慮義務があるとの主張であれば、具体的な支配従属関係に即して、次に説示する具体的な注意義務が問題とされるべきことになるのである。すなわち、原告らの主張する結果責任と同様の安全配慮義務とは、結局、身体、自由を強制的に制限した違法な侵害(不法行為)を前提として、その全面的な被害の回復をすべきであるとの主張にほかならないものというべきであり、安全配慮義務による損害賠償とは異なるものというほかないのである。

したがって、安全配慮義務に関する原告らの主位的主張は、理由がないといわざるを得ない。

4  次に、予備的主張について検討する。

(一) 安全配慮義務違反の主張に当たっては、まず、被害を受けたとされる者ごとに、結果の発生した具体的な状況を明らかにした上で、発生した結果との関係から、その具体的状況の下において義務者がそのような結果を予見できたか(予見可能性)、どのような措置を講じていれば結果の発生を予防できたか(回避可能性)、そして、義務者と被害者との法律関係及び当時の技術やその他の社会的な諸事情に照らして、義務者に対し右結果発生の防止措置を採ることを義務づけるのが相当であるかといった点を判断するに足りる具体的な事実を明らかにする必要があるというべきであり、右の観点から原告らの主張を検討するときは、なお、安全配慮義務の具体的主張があると認めるに足らないことは、以下に説示するとおりである。

(二) 労働者に対する安全配慮義務違反について

(1) 原告金景錫は、被告が、同原告に対し、拷問、暴行を行わず、傷害を負わせず、また、受傷後は、後遺症が残らないよう十分な治療を施すべき義務を負担していた旨主張する。しかしながら、右主張は、一般的・抽象的な安全配慮義務の主張にとどまっており、拷問、暴行を防止することができたことを基礎づける事実、受傷の状況、治療を施す状況等が具体的に特定されておらず、被告がいかなる内容の安全配慮義務を負担していたかを具体的事実に基づいて特定して主張しているとはいえない。

(2) 原告宋有福、同盧道川、同白官周、同池東萬、同金昌淳及び同李相翼は、被告が、原告宋有福及びその余の各原告に係る被害者に対し、坑内事故等の事故が発生しないよう十分配慮する義務及び事故による受傷後は十分な治療を施すべき義務を負担していた旨主張する。しかしながら、右主張は、一般的・抽象的な安全配慮義務の主張にとどまっており、事故発生の状況、受傷の状況、治療状況等が具体的に特定されておらず、被告がいかなる内容の安全配慮義務を負担していたかを具体的事実に基づいて特定して主張しているとはいえない。

(3) 原告盧道日は、被告が、盧鳳南に対し、安全が確認されるまでは空襲から退避を継続するよう指示すべき義務を負担していたにもかかわらず、故意又は過失によってこれらの義務を怠った旨主張する。しかしながら、右主張は、一般的・抽象的な安全配慮義務の主張にとどまっており、空襲の状況、退避の状況、被害状況等が具体的に特定されておらず、被告がいかなる内容の安全配慮義務を負担していたかを具体的事実に基づいて特定して主張しているとはいえない。

(4) 原告李相翼は、被告が、李奇淳に対し、坑内事故が発生したときは、坑内救出作業を継続し、坑口を塞がない義務を負担していた旨を主張する。しかしながら、右主張は、一般的・抽象的な安全配慮義務の主張にとどまっており、事故発生の状況、坑内事故が発生した坑道及び坑口の状況等が具体的に特定されておらず、被告がいかなる内容の安全配慮義務を負担していたかを具体的事実に基づいて特定して主張しているとはいえない。

(三) 軍属に対する安全配慮義務違反について

(1) 原告全金、同朴大興、同朴菊希、同鄭聖祚、同南相億、同朴元植、は、被告が、原告全金及びその余の右各原告に係る被害者に対し、十分な食事を供給し又は健康を害さず病気に罹患しないように配慮し、受傷後又は罹患後は十分な治療を施すべき義務を負担していた旨を主張する。しかしながら、右主張は、一般的・抽象的な安全配慮義務の主張にとどまっており、事故発生の状況、受傷の状況、罹患の状況、治療状況、食事の供給状況等が具体的に特定されておらず、被告がいかなる内容の安全配慮義務を負担していたかを具体的事実に基づいて特定して主張しているとはいえない。

(2) 原告朴大興は、被告が、同原告に対し、十分な作業訓練を実施し、大八車を引いているときに倒れて大八車の下敷きにならないよう、大八車・地下壕建設現場の通路を整備すべき義務を負担していた旨主張する。しかしながら、右の主張によっても、同原告が大八車を引いているときに倒れた原因が、被告のいかなる安全配慮義務違反に起因するのか、すなわち、十分な作業訓練を実施しなかったことに起因するのか、大八車又は地下壕建設現場の通路の整備不足によるのかにつき、何ら明らかでなく、その主張はなお一般的・抽象的であって、具体的事実に基づいて安全配慮義務の内容を特定して主張しているとはいえない。

(3) 原告崔徳雄、同鄭聖祚、同鄭賛教、同厳在澗及び同李運範は、被告が、同原告らに係る被害者に対し、武力行使の及ばない場所に退避させるべき義務を負担していた旨を主張する。しかしながら、軍属は、本来的には戦闘員でないとしても、戦争時に危険な地域において職務に従事することが予定されており、危険はもともと予想されているものであるから、被告が、軍属に対して、一般的に武力行使の及ばない場所に退避させるべき義務を負担していたということはできない。なお、具体的状況によっては、そのような義務が発生する場合があることは否定できないとしても、そのような具体的状況について、右原告らは特定して主張していない。

(四) 軍人に対する安全配慮義務違反について

(1) 原告陳萬述及び同丁竜鎮は、被告が、原告陳萬述及び丁奎洙に対し、武力行使の及ばない場所に退避させるべき義務を負担していた旨主張する。しかしながら、その本質が戦闘員である軍人に対して、武力行使の及ばない場所に退避させるべき義務を被告が負担していたということはできない。

(2) 原告陳萬述は、被告が、同原告に対し、受傷後は速やかに治療を受けられる場所に輸送し、後遺症が残らないよう治療を施すべき義務を負担していた旨主張する。しかしながら、同原告が受傷した場所が戦地であり、当時の状況下において、被告が、同原告を受傷後速やかに治療を受けさせるべき場所に輸送し、適切な治療を施すことによって、同原告に後遺症が生ずることを回避することは、不可能であったというべきである。

(五) 以上から、原告らの予備的主張も、理由がないといわざるを得ない。

五  国際法に基づく損害賠償・謝罪請求権について

1  原告らの主張するところは、既に検討した不法行為の違法性を義務づける根拠として国内的効力を有する国際法規範を引用するものではなく、国際法規範に違反した国家の責任を被害を受けた私人が当該国の司法機関に対して損害賠償等を請求することができるとするものである。

ところで、現在の国際社会は、国際組織の強化、多国間条約等による組織化が進められているとはいえ、法を強制するための各国家を超えた統一的権力が存在しない状況下において、国家間の信義に基づいて各国家の外交又は国際組織を通じた国際協力あるいはそこにおける調整的、制裁的作用等を介して多元的な利害関係にある国家間の公正な秩序の維持が図られている状況にあり、条約等により形成される国際法規範が締約国の国内問題に関連し、あるいは個人の主体性を承認する場合があるとしても、その国際法主体は、原則として国家であり、国家の同意した条約等あるいは国際間の事実と確認により確立した国際慣習法なしに、その国家に国際法規範を強制することはできないものというべきである。したがって、国際法規範が個人の権利救済を内容とする場合であっても、そのことから、直ちに、個人が締約国に対して直接請求することを可能とすることにはならないものと考えられる。

そして、原告らがその最終準備書面において学説(山本草二「国際法」(新版))を引用して主張するところは、ある国家が国際法規範に違反する行為によって他国民の基本的自由及び権利を侵害した場合、当該国は国際法の主体として損害賠償義務を負担する(国家の国際法上の賠償責任)、そして、個人の法主体性を認める明文の国際法規範が存する場合のみならず、個人の権利、利益保護を命ずる条約規定が自動執行性を持つ場合は勿論、国家の裁量を制限してその履行を厳格に義務づけている場合にも、個人の法主体性を承認することに関する国家間の合意があったとみることができ、原告らが引用する各条約又は国際慣習法は個人の基本的自由及び権利の保護を規定するものであって、右のような意味で個人の国際法主体性を予定するものであり(個人の国際法上の賠償請求権)、また、一般に個人はその属する国家を介して国際法規範に服することになるが、国家を介することが不可能な場合には、その利益に必要な限度で国際法上の権利を行使することができると解すべきところ、原告らは、原告らの主張に係る強制連行当時、その所属国家が主権を否定されていたため、その属する国家を介して国際法規範の履行を請求することができなかった(請求権行使における個人の法主体性)、また、右国際法規範の拘束を受ける国家の司法機関もその国内法によって国際法上の問題に対する管轄権が与えられ、かつ、国際法に準拠して管轄権を行使する限りは、国際管轄権の行使を分担するものとして(国内裁判所の国際裁判管轄権)、国際法規範に従った判断をすることができるというものである。

したがって、原告らの主張に従っても、原告らの主張する強制連行により本件各被連行者が被告に対する損害賠償請求権を取得したというためには、当時の我が国を拘束する国際法規範が、かかる請求権の発生を規定し、この規範が我が国の裁判所を拘束する規範として自動執行力を有するか、同様に解し得る程度に、国家の裁量を制限してその履行を厳格に義務づけている場合である必要があるところ、原告らが本件請求の根拠として引用する強制労働条約は個人の損害賠償請求権の発生に関する要件、効果を規定するものではないから、自動執行力を有するとはいえないことはもとより、その締約国の裁量を制限して個人の損害賠償請求権の発生要件及びその履行を厳格に義務づけていると解することはできず、右のような内容を有する国際慣習法の成立を認めることができないことは、次項以下に説示するとおりである。

なお、原告らは、個人の国際法主体性が認められるのは、国際司法機関への出訴権、国際機構への請願、申立てあるいは国際手続による個人の処罰を定めた条約が存在する場合等であるが、そのような条約はなお少数であり、しかも、その場合でも、個人の法主体性が認められるのは締約国国民又は一定の国際機構職員に限られることを不合理であるとして、個人の国際法主体性の拡張を主張するが、国際法の前提とする国際社会の構造に照らせば、原告らが指摘する不合理な事態とは、正に国際法の置かれた状況をいうものに他ならないのであって、かかる状況があるからといって原告らの主張を採用することはできない。なお、原告らの主張事実を前提とする場合に、本件事案において原告らにとって外交保護権の行使をすべき国家が存しないというべきかについても議論のあるところである。

2  国際慣習法は、国際社会の構成員間で行われる特定の国家実行の積み重ね、いわゆる国家間の国際慣行を基礎として形成された国際法規であり、同じく国際法の法源でありながら、原則として合意した当事国のみを拘束する成文国際法である条約に対して、その妥当範囲が国際社会全体に及ぶことを特徴としている。

国際慣習法も条約と同様、国際社会において一般的に妥当する法形式の一つである以上、単に特定の事項について大多数の国家間に一定の国際的な慣行(一般慣行)が成立していると認められるだけでは足りず、更に右の慣行につき、主要な国家を含んだ大多数の国家において法的に義務的なものとの信念(法的確信)が介在していることによって初めて法的拘束力を取得するに至るものというべきである。

ところで、原告らは、奴隷条約等が奴隷制度と奴隷取引の禁止を規定していることから、奴隷の状態又は隷属状態に置かれない自由ないし権利が根拠付けられるとともに、それを侵害された個人は、国家に対して損害賠償請求権及び謝罪請求権を有することが根拠付けられるとし、また、「人道に対する罪」が国際慣習法に基づく刑罰法規として成立している以上、民事責任についても同様の趣旨の国際慣習法が当然成立しているというべきであるとそれぞれ主張する。

しかしながら、前述のとおり、国際慣習法が成立するためには、一般慣行及び法的確信が必要であるところ、奴隷制度と奴隷取引の禁止及び刑罰法規としての「人道に対する罪」が国際慣習法として成立していたとしても、それによって民事上の責任についての国際慣習法が当然に成立するということはできず、右責任の履行を求める請求権の発生が国際慣習法として成立するためには、右請求権の発生及び履行についての一般慣行及び法的確信が別個に必要であることは明らかであるというべきである。そして、民事責任の存在及び履行について、その一般慣行の成立を基礎づけるに足りる具体的事例の主張を原告らはしておらず、また、そのような具体的事例の存在をうかがうこともできない。

3  次に、強制労働条約の存在により、強制労働に従事させられた個人が国家に対して損害賠償請求権を有するとの一般慣行及び法的確信が存在したとする原告らの主張について検討するに、同条約中には損害賠償の規定は存在していないところ、同条約が強制労働を原則として禁止しているとしても、その条約の存在によって、直ちに原告らが主張するような一般慣行及び法的確信が存在したということはできないし、そのような一般的慣行の成立を基礎づけるに足りる具体的事例の存在をうかがうこともできない。したがって、強制労働条約に関する原告らの請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由がない。

六  国家賠償法一条一項に基づく損害賠償請求権等について

1  国籍要件の廃止義務について

(一) 日本国憲法一四条違反について

日本国憲法一四条一項は、法の下の平等を定めているが、右規定は合理的な理由のない差別を禁止する趣旨のものであり、各人に存する経済的、社会的その他種々の事実上の差異を理由としてその法的取扱いに区別を設けることは、その区別が合理性を有する限り、何ら右規定に違反するものではないと解すべきである。

ところで、戦後補償立法に右国籍要件が設けられた趣旨は、昭和二七年四月二八日、連合国と日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)が発効し、その四条(a)において、朝鮮、台湾等の分離独立地域における施政当局及びその住民の財産、請求権の処理が日本国と施政当局との特別取極の主題とされ、朝鮮半島及び台湾出身者である軍人・軍属等に対する補償問題は、関係二国間の外交交渉によって解決されることが予定されていたことから、朝鮮半島及び台湾出身者に対する戦後補償立法の適用を除外するために国籍要件を規定したものであると解される。

そして、戦後補償立法は、基本的には国家補償の精神に基づいて制定されたものであるが、一面において、軍人・軍属等であった者又はその遺族に対する生活援助法的側面をも有するものであることは否定できないところ、この種の援助は、当該援助の対象者の属する国家の責任においてなされることが現在国際間で基本的に容認されている実情にあると解されるところであって、また、自国民に対する関係についてみても、戦争犠牲又は戦争損害について、国が、いかなる範囲の者に対して、いかなる程度の補償を行うかは、基本的には、国民感情や社会・経済・財政事情、さらには、外交政策、国際情勢等を考慮した政治的判断を要する立法政策に属する問題であるというべきである。

右のような国籍要件が規定された経過、戦後補償立法の性格等をも考慮すれば、戦後補償立法の制定に当たって、朝鮮半島出身者に対する補償問題は、韓国政府と日本政府との特別取極によって解決することを予定する一方、戦後補償立法自体においては、自国民のみを援護の対象とする趣旨で、国籍要件を規定するという立法政策をとったことには、合理性があるというべきであり、これによって、日本国籍を有する軍人・軍属等とサンフランシスコ平和条約により日本国籍を失った朝鮮半島出身の軍人・軍属等との間で、その取扱いに差異が生じていても、これをもって直ちに、日本国憲法一四条一項に違反することになるということはできない(最高裁平成四年四月二八日第三小法廷判決・集民一六四号二九五頁参照)。

(二) B規約二六条違反について

B規約二六条の定める平等原則は、締約国の領域内にあり、かつ、その管轄下にあるすべての個人に対して(同規約二条)、法の下の平等を確保しようとするものであって、日本国憲法一四条一項と同様に、合理的な理由のない差別を禁止する趣旨のものというべきであるところ、前記説示のとおり、戦後補償立法における国籍要件が不合理な差別を行うものということはできないから、右国籍要件がB規約二六条に違反するということもできない。

なお、<証拠略>によれば、原告らが引用する「セネガル・ケース」は、かつてフランスの統治下にあり、フランス軍人として軍務に服し、フランス国内法において、軍務に対する報償としての性質を有する年金受給権を取得し、セネガルの独立後も平等の権利を認められていたセネガル人が、その後のフランス国内立法により年金の給付内容においてフランス人と差別されたという事案であり、本件とは給付の性質を異にする上、国籍による区別をする理由、経過も全く異なるものであって、本件に適切なものとはいい難い。

(三) 以上から、国会には、戦後補償立法の国籍要件を廃止すべき立法義務が存在するという原告らの主張を採用することはできない。

2  補償立法義務について

原告らは、日本国憲法の諸規定を総合すれば、解釈上、戦後補償を行う立法義務が存在すると主張するので、以下、原告らが指摘する各条項について検討する。

まず、日本国憲法前文は、日本国憲法の基本原理の宣言であって、それ自体において裁判規範性はなく、カイロ宣言、ポツダム宣言と併せてみたとしても、そこから侵略戦争と植民地支配の被害者に対する謝罪と賠償の立法を行うことを義務づけていると考えることはできない。次に、日本国憲法の理念である平和主義及び国際協調主義から、直ちに、国の戦争被害者に対する補償をすべき義務までを導き出すことはできない。また、日本国憲法一四条は、国政の高度の指導原理として、法の下の平等原則を宣言したものであって、同条を直接の根拠にして、実体法上の請求権が発生したり、立法措置義務が生じたりする余地はない。さらに、日本国憲法二九条三項は、財産権についての特別な犠牲に対する補償を規定しているが、前述のとおり、原告らの主張する損害は、そもそも財産権についての特別の犠牲ということはできないものである。その他、日本国憲法一七条及び四〇条から戦後補償についての立法義務が生じると考えることもできない。日本国憲法九八条二項にいう「確立された国際法規」とは、国際社会で一般に承認され、実施されている国際慣習法をいうと解されているところ、原告らが主張するドイツ、アメリカ合衆国及びカナダの例のみによって、加害国が被害国民個人に対して戦後補償をすることが、国際慣習法として確立しているといえないことは明らかである。外国において、戦争被害に対する補償に関する立法措置を講じている国が存在しているとしても、それはその国における個々の具体的な事実関係ないし事情に即して戦争被害に対する補償に関する立法措置が講じられているのであって、それらとは事実関係も事情も異なる他の国において、同様の補償に関する立法措置を講ずべき義務が一律に存在するということはできない。

したがって、日本国憲法の解釈上、戦後補償を行う立法義務が存在するということはできない。

3  国会がいつ、いかなる立法をなすべきか、あるいは立法しないかの判断は、国会の裁量事項に属するのであって、仮に国会議員の立法不作為又は内閣の法律案の不提出が国家賠償法上違法であると評価される場合があるとしても、日本国憲法の一義的な文言に違反している場合に限られるところ、憲法上はもとより憲法解釈上もこのような補償立法義務が存在するとはいえないことは、右に述べたとおりである。

4  以上から、原告らの立法不作為に基づく国家賠償請求及び内閣の法律案の不提出に基づく国家賠償請求は、いずれも理由がないというべきである。

七  結論

原告らの主張は、約半世紀の昔、被告が行った行為により隣国の国民が多大の苦難を味わい、その苦難が国家間の合意によっても、今なお解消することができないものであること及び原告らにとって、その被害が他民族による加害というよりも、むしろ他民族に協力したことによって被った被害であり、国籍の得喪という原告らの関知しない事態により、その権利行使が極めて困難となっていることを明らかにし、被告の政治的、道義的責任を指摘するものということはできるが、なお、被告の法的責任を肯定するには足りないのである。

以上のとおりであるから、原告らの請求はいずれも理由がないので棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 富越和厚 竹野下喜彦 岡田幸人)

(別紙一)当事者目録<略>

(別紙二)謝罪文

(謝罪の方法) 国家行政責任者(内閣総理大臣)が国会において次の如く言明する。

(謝罪) 「過去日本は侵略戦争遂行のため、多くの元朝鮮国青年を強制連行し、劣悪な環境下において強制労働に従事させたこと、軍人軍属として戦地に投入し、しかも負傷者を見捨てたことを深く反省し、謝罪致します。」

(別紙三)原告らの主張

第一朝鮮人強制連行の実態

一 朝鮮人強制連行の概略

1 韓国併合と植民地支配

(一) 韓国併合

明治政府は、その成立当時から朝鮮の植民地化を国家的目標としてきたが、一八七五年の江華島事件以来朝鮮への内政干渉を続け、日清、日露の両戦争を経て朝鮮における支配的地位を確立し、一九〇五年、日本軍が朝鮮王宮を包囲するなかで、伊藤博文が大韓帝国政府の大臣等に強要して、「乙巳保護条約」に調印させた。この条約により韓国は外交権を奪われ、外交を監督するとの名目で日本から送り込まれた韓国統監による徹底した内政干渉によって、事実上日本の植民地とされていった。そして、一九一〇年八月二二日、ついに日本は当時の大韓帝国政府に「大韓帝国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲渡スル」との日韓併合条約を押しつけ、朝鮮を完全に日本の植民地にした。こうして、朝鮮に住む全ての人々は大日本帝国「臣民」とされた。

(二) 植民地支配

日本は、天皇が直接任命する朝鮮総督の下に総督府を設置し、軍隊と警察を一元化して、「武断政治」と呼ばれる強権支配を行って朝鮮を支配し、朝鮮語の言論や教育を弾圧する一方、「土地調査事業」「林野調査事業」等を実施して朝鮮農民の土地を収奪した。

このような植民地支配に反対し、一九一九年には朝鮮全土で二〇〇万人を超える人々が、「独立万歳」を叫ぶ三・一独立運動に立ち上がった。しかし、日本は非武装の朝鮮人に武力弾圧を加え、約七〇〇〇人の朝鮮人が日本軍警によって殺害された。

三・一運動の高揚に懲りた朝鮮総督府は、「文化統治」を標榜して、朝鮮語の新聞発行を一部承認する等の懐柔策をとった。しかし、一九二〇年に始まった「産米増殖計画」により、一五年間に増産率二割に対して日本への移出は四倍にする飢餓輸出を強要するなど、植民地収奪の実態に変わるところはなかった。

2 戦争への動員

(一) 兵站基地化政策

日本は、一九三一年に満州事変、一九三七年に日中戦争を引き起こし、中国への本格的な侵略を始めた。日本は、朝鮮を中国侵略の「兵站基地」(人的・物的資源の補給基地)と位置づけ、食糧や工業資源の略奪を強化するとともに、朝鮮人を戦争遂行のための人的資源として利用するようになった。

(二) 皇民化政策

朝鮮人を戦争遂行の人的資源とするには、朝鮮人からその民族性を奪い、日本に隷属させ、天皇に忠義を尽くさせる必要がある。このため、日本政府はいわゆる「皇民化政策」を推進した。天皇に忠誠を誓う「皇国臣民の誓詞」をことあるごとに唱えさせ、朝鮮各地に勤労奉仕によって神社を建立し、その参拝を強要し、「創氏改名」を実施して氏名を日本風に改めさせた。

(三) 強制連行による労働力動員

戦争の長期化に伴い人的資源の不足が深刻になり、自由募集の方法では「国策産業」と呼ばれた軍需産業の労働要員を供給することができなくなった日本は、戦時下の非常措置として一般国民を強権で徴用するため、一九三八年に国家総動員法を公布し、同法四条に基づいて一九三九年七月に国民徴用令(勅令第四五一号)を公布して、労働力動員の態勢を整えた。ただし、朝鮮に対しては民族的抵抗をおそれて最初は国民徴用令を直接適用せず、同年九月三〇日に朝鮮総督府令第一六四~一六七号として朝鮮人労働者の徴用に関する一連の施行法規を制定し、同年一〇月から「募集」方式による労働力動員が始められた。

「募集」方式とは、労働力を必要とする事業所が、府県長官を通じて厚生省の募集許可と朝鮮総督府の募集地の割当てを受け、募集人が割り当てられた道から指定された面に赴き、そこの職員や警察官と協力して労働者を集めるもので、日本政府の深い関与の下に行われる労働力募集だった。

「募集」方式による連行は最初の一年程は徴兵制に準じて身体検査、壮行会の挙行などの手続が行われていたが、対米戦争が始まり、日本本土、樺太、太平洋諸島、朝鮮の多くの炭鉱、軍事基地の工事、鉄山、軍需工場、食料の増産のための大規模な干拓開墾、巨大な神社の造営等で労働者の需要が急激に増大し、労働力が著しく逼迫すると、朝鮮総督府とその地方官憲は、これらの手続を踏むことなく、朝鮮人青壮年を手当たり次第狩り集め始めた。朝鮮総督府が必要な人員数を各道知事に割り当てると、知事はそれを各郡の郡守に割り当て、郡守はそれを再び各面に割り当てた。面当局者は、始めのうちは割当人員を達成するように努力していたが、やがてその達成が不可能になると、郡職員、警察、面職員によって労働者を力ずくで狩り出すようになった。道行く人、家で寝ている人を急襲して手当たり次第に引き立て、所定の期日に各面から面書記や巡査が連れてきた労働者達を、郡庁の倉庫や学校の教室に閉じ込め、その数が供出指定数に達すると、郡庁や警察署前の広場に集めて郡守や警察署長が訓話をした後、バスやトラックに満載してその行く先を知らせず、朝鮮内の各鉱山や日本本土、太平洋地区、樺太方面に連行した。

一九四二年には、形式上も「募集」方式を改め、朝鮮総督府内におかれた朝鮮労務協会を運営主体とする、より強制的な「官斡旋」方式の連行が始まり、大規模な「国民動員計画」が立てられた。そして、労働力不足が一層深刻化した一九四四年八月には、朝鮮に国民徴用令を一般的に適用し、「青紙」一枚で朝鮮人を労働者として自由に連行できるようにした。このように、「募集」「官斡旋」「徴用」と方式は異なっていてもその実態は日本政府による強制連行にほかならなかった。

こうして労働者として日本本土に連行された朝鮮人の総数は、各種統計により少なくとも一一〇万人は下らないとみられている。これらの人々は、炭鉱や軍事施設の建設現場などで奴隷のような労働を強いられ、ある人々は命を失い、ある人々は身体や精神に瘉すことのできない傷を負わされた。日本に連行された人々のうちおよそ三〇数万人が死傷し、そのうち死亡者は約六万人にのぼるとみられている。

(四) 軍要員としての動員

(1) 従軍慰安婦

一九三〇年代末期から、日本軍は朝鮮人女性を従軍慰安婦として強制連行し始めた。強制や甘言によって主に一〇代の女性を連れ去り、日本軍兵士の性欲のはけ口としてその人格を蹂躙した。これらの女性の連行や慰安所の管理に日本軍が直接関与していたことは、今日では疑いの余地なく証明されている。

(2) 軍属

国民徴用令による軍属としての朝鮮人動員は、一九三九年に開始されていたが、対米戦争開始以来、その数が急激に増大した。厚生省発表によると、一九四五年までに一五万四九〇七名の朝鮮人軍属が動員され、日本本土や南洋諸島で軍事土木工事、炊事係、捕虜監視要員や運輸要員として労働させられた。

(3) 志願兵制度

一方、日本政府は当初、朝鮮人に武器をもたせることを恐れていたが、戦争の際限のない拡大の中で、朝鮮人青年の軍人としての動員に踏み切った。一九三八年二月、陸軍特別志願兵令(勅令第九五号)を公布、同年三月に勅令第一五六号で、六ヶ月期間の志願兵訓練所官制を制定し、羅南、咸興、平壌、大邸などに陸軍兵志願者訓練所を設置、同年四月から志願兵制度を実施した。また、太平洋戦争が始まり、海軍の兵力が不足すると、一九四三年七月、海軍特別志願兵令(勅令第六〇七号)を公布、鎭海に海軍兵志願者訓練所を設立し、一〇月一日から朝鮮人青年を海兵として養成し始めた。さらに、一九四三年には学徒志願兵として専門学校、大学の朝鮮人学生が戦場に動員された。

一九三八年から一九四三年の間にこれらの志願兵として動員された朝鮮人青年は二万三六八一名である。一方、これに志願した者の数は八〇万五五一三名にのぼるとされ、朝鮮総督府等はこれを朝鮮人青年の「愛国的熱誠」によるものと宣伝した。しかし、現実には「志願」とは名ばかりで、面ごとに人数を割り当て、地方の官吏や警察による強制動員が行われた。日本本土で学ぶ朝鮮人学生に対しては、志願しない者は炭鉱等へ徴用するとの恫喝まで行って強制的に志願させた。八〇万人を超える膨大な志願者数はむしろ強制の存在を証明するものである。

(4) 徴兵制度

日本政府は、対米戦争が始まりよく多くの兵力が必要になると、朝鮮人青年の戦争への動員をより義務的なものにするため、一九四二年五月、一九四四年度から徴兵制導入を決定し、「徴兵制施行準備委員会」を設立して準備に取りかかった。そして、中学以上に現役将校を配属し、国民学校卒業生は青年訓練所、国民学校未修了者は青年特別錬成所に義務的に入所させ、軍事訓練や皇民化教育を行い、同年一〇月には徴兵適齢届を行わせた。こうした準備を経て一九四四年四月、ついに朝鮮に徴兵令が適用され、一九四五年までに二〇万九二七九人の朝鮮人青年が戦場に狩り出された。

(5) 朝鮮人軍人・軍属の処遇

日本軍は、朝鮮人青年を動員したものの、その反乱をおそれ、朝鮮人だけの部隊は編成せず、日本人部隊のなかにばらばらに配置した。このため、ただでさえ暴力の横行した日本軍隊内で、朝鮮人兵士達は民族的偏見に基づく虐待や私的制裁に耐えねばならなかった。また、南方に配属された朝鮮人軍属は、英米人捕虜の監視業務を担当させられたため、戦後BC級戦犯として処刑された者もいた。結局、戦場に狩り出された四〇万人近い朝鮮人軍人・軍属のうち、約一五万人は帰還していない。

3 連行された朝鮮人の帰還

一九四五年八月一五日、日本はポツダム宣言を受諾して、戦争は終結し、日本の朝鮮に対する植民地支配も事実上終焉した。戦後、日本政府は日本に連行されていた朝鮮人の帰還事業を行った。しかし、この事業は、朝鮮人の損害を少しでも軽減するために行われたのではなく、日本本土に居住する朝鮮人の反抗をおそれて、朝鮮からの日本人の引揚船の復便を利用して行ったものにすぎない。そのため、サハリンから日本本土への引揚船には朝鮮人は乗船を拒否され、四万人にのぼる朝鮮人が置き去りにされた。また、サハリンの上敷香では日本人の引揚げに際して、日本軍が朝鮮人達を警察署に監禁、放火し虐殺する事件が発生したり、青森県から多数の朝鮮人を乗せて朝鮮に向かった浮島丸が舞鶴港内で爆沈して数百名の朝鮮人が死亡した。

二 朝鮮人強制連行の実態の展開

1 強制の実態

かつて日本人も日本国家により強制連行や強制労働を受けていた(一九三八年四月一日公布の国家総動員法四条に基づく国民徴用令による徴用、兵役法四条による兵役)。しかし、日本人と朝鮮人では強制の実態に重大な違いがあり、それが故に朝鮮人にのみ強制連行又は強制労働が問題視されるのである。すなわち、朝鮮人は主権を奪われた植民地の民族であり、民族差別を受け、その受けた強制の程度や性格は日本人が受けた強制とは著しく異なっていたからである。

2 朝鮮人「労務動員」

(一) 日本への朝鮮人労務動員の期間・人数・産業分野

朝鮮人が労務動員として日本へ連行された期間は、一九三九年九月ころから一九四五年八月の日本敗戦時までである。連行された人数は、統計資料によって異なるが、六六万七千余人から八〇万人であり、連行された産業分野は、石炭山、金属山、土建、工場その他の職場であった。

連行された朝鮮人が最も多く送り込まれた職場は炭鉱であった。それは日中戦争開始により軍需工場に労働力需要が多くなり、労働条件が劣悪で蔑視された炭鉱労働者は炭鉱に比べれば労働条件の良い軍需工場に吸収され、諸産業分野のうち特に炭鉱の労働力が不足したからである。

(二) 強制労働と逃亡防止策

連行された朝鮮人労働者は苛酷な労働に従事させられ、それが故に朝鮮人の逃亡は極めて多かった。本人の意思を無視した強制連行が逃亡のそもそもの原因であった。かかる逃亡を防止し、労働を強制するためにさまざまな処置がとられたのであった。その一端は次のとおりである。

<1> 逃亡防止施設=筑豊炭田の多くの炭鉱では、強制連行された朝鮮人の寮を高い塀で囲って逃亡を防いだ。

<2> リンチ=逃亡して逮捕された者に対して行われる見せしめのための苛酷なリンチがあった。

<3> 既往在日朝鮮人との隔離政策=日本語ができて日本の事情が分かっている朝鮮人と連行された朝鮮人との接触を遮断し、隔離、孤立させる労務管理政策がとられた。

<4> 強制貯金=現金を持たせず、逃亡を防止することが狙いであった。

<5> 家族呼寄せ=逃亡防止のために「家族呼寄せは頗る効果的」なことが認識されて、治安上支障なき限り家族呼寄せを許容する方針がとられた。

(三) 民族差別と労働災害、医療

(1) 炭鉱、土建、工場など危険な場所での就業

どこの炭鉱でも、連行された朝鮮人の大部分は危険な坑内に就業させられ、北海道や筑豊炭田では坑内労働の基幹労働力であった。朝鮮人が危険な場所に就業させられたのは、炭鉱だけではなく、他の職場でも同様であった。例えば、神奈川県相模湖ダム建設に強制連行された朝鮮人からは、「一番危険な仕事をさせられたのはいつも朝鮮人だった。」との証言が得られている。それが故に、朝鮮人は日本人以上の労働災害を被っている。

(2) 労働災害を引き起こした諸原因=訓練不足、長時間労働、飢え

朝鮮人の労働災害の原因は、右にとどまらない。それは朝鮮人が十分な訓練を受けなかったことにある。炭鉱労働に従事させられた朝鮮人を例にとると、当面の石炭生産量をあげるために、朝鮮人を労働現場に送り込むことのみが優先し、朝鮮人らの生命の安全を確保するための訓練がおろそかにされた。あわせて、炭鉱の食事といえば、粗食かつ少量であり、したがって、身体は衰弱し、長時間労働も加わって過労に陥り、労働災害にかかりやすい状態に置かれていたのであった。

(3) 医療における民族差別

労働条件の差別から起こった傷病に対する医療でも差別が行われた。すなわち、朝鮮人は、日本人より傷病がずっと多かったが、医療は日本人並みには受けられず、労働現場に戻されたのであった。

3 朝鮮人「軍要員の動員」

(一) 軍要員の徴発

軍要員の徴発には、早くも一九四二年一月から国民徴用令が発動されていた。その数は明らかではないが、約一四万五千人とも約一五万五千人ともいわれている。

軍要員は、軍の労働者であって、一般企業に労務動員された労働者と本質的な違いはない。したがって、一般の労務動員と共通する点は、前記の「労務動員」の項で述べたとおりであり、朝鮮人軍要員に関して特に問題となる点を指摘する。

(二) 軍事的に危険な地域への配属

日本統治下の南洋群島の軍事的拠点だったブラウン環礁、硫黄島など、南方の諸島の軍事基地建設に軍要員として送られた者は朝鮮人が多かった。そうした軍事的危険性の多いところの労働力には、日本人の消耗を避けるために朝鮮人が多く送り込まれたのであった。

(三) 朝鮮人軍要員は、軍人と行動を共にしなかったり、米軍に投降しようとして射殺され、民族差別により殺害され、暴行を受けていた。

朝鮮人軍要員は、民族差別により日常的に侮辱され、暴行を受けた。米軍の攻撃が激しくなれば、非戦闘員である朝鮮人軍要員も戦闘員である軍人と行動を共にすることが強要され、いささかでも「軍紀」に反すれば、いとも簡単に「処刑」された。朝鮮人軍要員は、非戦闘員だからといって、特に安全を配慮されることはなかったのみか、敵軍のみならず、「味方」の日本軍からの生命の脅威にもさらされていたのであった。

4 朝鮮人「兵力動員」

(一) 朝鮮人兵力動員の概観

朝鮮人の兵力動員は、「大東亜戦争」を遂行する上での日本人の人的資源の消耗を避けるために、その犠牲を朝鮮人に押し付けようというものであった。いわば朝鮮人兵士は、「大東亜共栄圏」の指導者であるべき日本人人口の消耗を避け、これを維持するため代用品として位置づけられた。

(二) 軍隊の中の朝鮮人差別

朝鮮人軍人に対する民族差別は、既に述べた朝鮮人軍要員に対する民族差別と変わることはなかった。敗戦の日、朝鮮人兵士が日本人兵士に語った軍隊内部の出来事にそれは如実にあらわれている。「その軍隊で、ごらん下さい。ある下士官が加害者です。敵じゃない味方です。三八式歩兵銃床が、私の顔面をハンマーのごとく打ち砕いたのです。ついでに目玉一つまで飛び出してしまった。原因は何か。私が朝鮮人だからです。」

朝鮮人日本軍兵士の敵は「味方」といわれる者の中にいたのであった。

第二原告らに対する強制連行の実態及び原告らの損害等

一 原告らの地位

1 労働者原告ら

(一) 原告金景錫及び原告宋有福は、労働者として強制連行された被害者本人である。また、原告金景錫は、強制連行された被害者の遺族でもある。

(二) 原告劉永洙、原告盧道川、原告盧道日、原告白官周、原告池東萬、原告金昌淳、原告洪淳棋、原告李相翼及び原告李相禮は、労働者として強制連行された被害者の遺族である。

2 軍属原告ら

(一) 原告全金及び原告朴大興は、軍属として強制連行された被害者本人である。

(二) 原告朴菊希、原告崔徳雄、原告鄭聖祚、原告鄭賛教、原告南相億、原告朴元植、原告厳在澗及び原告李運範は、軍属として強制連行された被害者の遺族である。

3 軍人原告ら

(一) 原告陳萬述は、軍人として強制連行された被害者本人である。

(二) 原告丁竜鎮及び原告韓省愚は、軍人として強制連行された被害者の遺族である。

二 原告らの個別事情

1 労働者原告ら

(一) 原告金景錫(一九二六年四月二七日生)

(1) 被害者

氏名 金景重(創氏名・金城景重)

本籍 大韓民国慶尚南道昌寧郡昌寧面橋下里一三六

生年月日 一九二〇年四月一四日生

(2) 強制連行前の生活状況等

原告金景錫及びその兄である金景重らは、一九四〇年ころ、両親、姉、妹、末弟の七人家族で、大韓民国慶尚南道昌寧郡昌寧邑屹里一二一番地に居住していた。原告金景錫らの父は漢文の先生をしており、生活は中程度であった。

一九四二年一〇月ころ、金景重に対し、徴用令状が到達した。原告金景錫らの父は、新羅の王家の血を引く慶州金氏の家では長男である金景重が家系を継ぐべきであると考えていたので、金景重を生命身体に対する危険が大きい強制徴用から逃れさせようと考えた。そこで、人を介して、日本人面長の河村伸太郎と交渉し、次男である原告金景錫が強制徴用に応じる代わりに、金景重は強制徴用を免除してもらうこととなった。

(3) 原告金景錫の強制連行の状況等

当時一六歳であった原告金景錫は、「家系」の重さと「家族のため」を考え、金景重の身代わりとなって強制徴用に応じ、面事務所に出頭した。原告金景錫の身柄は、京城の職業紹介所に連行された後、「官斡旋」の名の下に、日本鋼管株式会社労務課の職員に引き継がれ、朝鮮総督府又は京畿道庁の役人及び高等警察の警察官の監視下、汽車で釜山に連行され、特別高等警察の警察官及び憲兵の監視の下に船で下関へ連行され、そこから再び汽車に乗せられ、警察官の監視の下に川崎市の日本鋼管株式会社川崎製鉄所まで連行された。

このように、原告金景錫に対する強制連行は、被告及び被告の国策会社である日本鋼管株式会社が共同して、原告金景錫の兄金景重を人質に取って精神的自由を奪い、被告の警察官が常に監視して身体的自由を奪って行われた。

(4) 強制労働の実態等

原告金景錫は、川崎(扇町)工場に連行された後、何らの職業訓練・安全教育を受けることもなく、まず、危険なホイスト・クレーンの運転業務に従事させられ、その後もクレーン運転業務に従事させられていた。職場環境は、約四〇度の高熱と一日五センチメートル程もつもる埃で衛生環境は最悪であり、衛生防災施設は何もなく、一か月に二〇人もの労働者が労働災害事故等で死亡する程であった。職場における朝鮮人に対する民族差別は厳しく、日本人労働者と比較しても、朝鮮人の作業内容は危険であり、作業環境も悪かった。宿泊場所であった川崎市東小田の寮では、四畳半の部屋に五人が詰め込まれ、軍隊出身の指導員ともう一人の日本人に昼夜監視されていた。被告も、臨港警察署の特別高等警察の警察官を随時工場や寮に派遣し、直接の監視、調査等を行っていた。給料は、連行当初の「(給料として)月八〇円は出る。」との約束と違い、毎月一日の休みもなく一日一二時間働かされたにもかかわらず、額面は二五円前後で、そこから愛国貯金、共済会費、国防献金等を差し引かれ、手取りは一〇円そこそこであった。そして、高熱下で粉塵の舞う苛酷な労働環境、量が不足した非衛生的な食事、監視状態下で自由を拘束され、手紙も検閲される寮生活といった劣悪な環境下で就労を強制された。

(5) 被害状況等

一九四三年四月中頃、原告金景錫が朝鮮人を差別管理するためのパンフレット(半島技能工の育成)を発見したことに端を発して、朝鮮人のストライキが自然発生した。これに対して、被告及び日本鋼管は、数百人の警察官、数十人の憲兵等による徹底的な弾圧を加え、原告金景錫を含む多くの朝鮮人に拷問を行い、五〇名以上の朝鮮人を検挙した。この時の拷問により、原告金景錫は酷い暴行を受け、右肩の骨折脱臼等の傷害を負い、この後遺症は現在でも残っている。

原告金景錫は、この傷害により労働できなくなったため、一九四四年ころ、帰国を許されたが、それまで強制的にさせられていた貯金の払戻しも受けられず、帰国のための旅費も支給されず、友人からの餞別でようやく帰国することができた。

原告金景錫は、帰国後、要視察の対象となり、昼夜の別なく私服刑事に見張られていた。そんなある日、私服刑事が原告金景錫の家を訪れ、「お前、家にいてもしようがないから、釜山の勤労報国隊に行け。」と命じた。原告金景錫は、一言も逆らうこともできず、痛い腕のまま釜山鎮区草梁商業学校に収用中の昌寧郡出身勤労報国隊の庶務、主に到着軍需物資の荷揚げに人員を配置する仕事に三か月間従事させられているうちに解放を迎えた。

(6) 金景重の強制連行の状況等

原告金景錫の兄金景重は、前記のとおり面長が強制連行しない旨を約したにもかかわらず、原告金景錫が強制連行された約一か月後、被告によって強制連行された。金景重に対する強制連行は、夜中に突然警察官と面事務所の労務係りの役人が現れ、ものを言わずに連行するという、完全に自由意思を奪って肉体を拘束するという形で行われた。金景重は四五日前に結婚したばかりであった。

(7) 金景重の強制労働の状況、死亡状況

金景重は、その翌日、釜山を経由して北海道夕張市の北海道炭鉱汽船株式会社新夕張炭鉱に連行され、いわゆる「タコ部屋」に強制収容された。手紙を出すこともできず、昼夜の別なく採炭夫として激しい労働に従事させられ、日本語が不自由だったためいつも殴られていた。

金景重からは、あまりにも腹が空くから麦の粉でも送ってくれるようにとの手紙がただ一回だけ来たきりで、その後、解放を迎えるまで消息は全く不明であった。

解放後、一緒に強制連行された村の者が現場の班長から託された手紙で、金景重は一九四五年一一月四日に夕張市社光六番地の北海道炭鉱汽船株式会社の病院で死亡したと知らされた。

(8) 身分関係

金景重の妻は、約三年間金景重の帰りを待ちわびていたが、その後、実家に帰り約三〇年間独身で過ごし、死亡した。原告金景錫は金景重の実弟であるが、金景重には子孫がなく、相続人であるその父母も既に死亡したので、金景重の弟である原告金景錫に相続権がある。

(9) 原告金景錫の請求

被告及び日本鋼管株式会社が示し合わせ、朝鮮人差別に端を発するストライキの弾圧により、原告金景錫を障害ある身にしたばかりか、甚大な損害を与えたことに対して、また、原告金景錫を強制連行して、このような苛酷な労働と弾圧の条件を作ったことに対して、被告は責任がある。

そして、このような被告の植民地政策が生んだ悲惨な結果は、単に原告金景錫一家にあるだけでなく、数千数万とあるものである。被告は、人道上の良識に照らして遺憾なきまで戦後処理をすべきである。

よって、原告金景錫は被告に対し、公式の謝罪と賠償・補償の支払いを求める。

(二) 原告宋有福(創氏名・松川有福、一九二三年二月二二日生)

(1) 強制連行当時の生活状況等

原告宋有福は、母、兄一家とともに生活し、農業で暮らしをたてていたが、貧しい生活であった。原告宋有福は、学歴がなく、ハングルの読み書きもできない。

(2) 強制連行の状況等

一九四三年三月ころ、突然、日本人警官と数名の日本人が原告宋有福の居住する村に来て、一家から男性一人ずつを強制連行した。その際も連行中も、連行の目的や連行先については何ら知らされなかった。

原告宋有福は、汽車で釜山まで連行され、そこから船で下関に連行され、最終的には福岡県の赤池炭鉱に連行された。

(3) 強制連行中の生活状況等

原告宋有福は、一九四三年三月ころから一九四五年八月の朝鮮解放時まで、赤池炭鉱において石炭採掘の労働に従事させられた。この赤池炭鉱は、おそらく筑豊の明治鉱業赤池鉱山のことであると思われる。

原告宋有福は、連日、一二時間以上労働させられた。賃金は、一年目は一切なく、二年目以降は小遣銭程度の額を受け取り、三年目には賃金は朝鮮の家族に送金していると聞かされた。しかし、家族は賃金の送金を受けていなかった。

炭鉱の仕事は危険であったが、安全管理はろくになされておらず、事故やけがが非常に多かった。原告宋有福も、作業中に頭部、耳等を負傷した。しかし、労働者が傷害を負っても、治療はおろか薬をくれることもなかった。

現場監督の日本人は、原告宋有福ら労働者に対し、毎日暴力を振るった。

原告宋有福は、約一八室程度の寄宿舎に寝泊まりさせられていたが、外出は禁じられており、強制連行中一度も市中に出られなかった。

(4) 朝鮮解放(日本敗戦)後の生活状況等

一九四五年八月の朝鮮解放と同時に、原告宋有福は赤池炭鉱から放り出された。原告宋有福には当然故郷に帰るための旅費もなく、下関まで歩き、小さな木製の船で朝鮮半島に渡って故郷に帰った。

原告宋有福には、炭鉱で作業中の負傷により、頭部には傷が残り、耳は聞こえなくなった。解放後、病院で耳の治療を受けようとしたが、聴力の回復は不可能であった。

(5) 原告宋有福の請求

以上のように、原告宋有福は、被告に強制連行されたことによって多大の苦痛を受け、強制連行後も連行中の負傷による後遺症が残り、筆舌に尽くしがたい苦しい生活を強いられた。

よって、原告宋有福は被告に対し、国際的にも常識となっている最低限のこと、すなわち公式の謝罪と賠償・補償の支払いを求める。

(三) 原告劉永洙(一九四二年九月一六日生)

(1) 被害者

氏名 劉鐘(創氏名・不明)

本籍 大韓民国江原道寧越郡寧越邑蓮下一里九四八番地

(2) 原告劉永洙の父劉鐘は、一九四二年未詳の日、労働者として強制連行され、山口県のある鉄鋼工場に送られたが、未だにその生死は不明である。

(3) 原告劉永洙が生まれるころ、劉鐘が強制連行された。原告劉永洙は父親のいないまま育ち、貧困の中で母の苦労は涙ぐましいものであった。

(4) 被告は、右(2)、(3)の事実について、原告劉永洙に対して、未だに何らの謝罪も報いもしておらず、人道に外れた行為であり、反省の気持ちがないと認めるほかない。

よって、原告劉永洙は被告に対し、過去の事実について誠実な陳謝と賠償・補償を求める。

(四) 原告盧道川(一九五七年三月一四日生)

(1) 被害者

氏名 盧玉童(創氏名・河城玉童)

本籍 大韓民国江原道洪川郡内面美山里八九七

生年月日 一九一一年三月一九日生

(2) 原告盧道川の祖父盧玉童は、一九四五年六月に労働者として強制連行され、福岡県の炭鉱で作業中に坑内事故により重傷を負いながら治療も受けられず、終戦後、日本に留まりながら療養したが癒らず、一九四九年に帰国させられたものの、当時の受傷が原因で間もなく死亡した。

(3) 原告盧道川は、盧玉童のことについては詳しくは分からないが、幼い時、父盧鳳基から悲しい過去の話をしばしば聞き馴れてきた。

(4) 右(2)、(3)の事実について、原告盧道川及びその家族に対して、何らの報いもなく現今に至っているのは非情の至りである。

よって、原告盧道川は被告に対し、戦争遂行のため盧玉童を無理矢理に連行して重傷を負わせ、治療もせず、「国民に非ず」として放棄した事実を認め、公式陳謝をするとともに賠償・補償を求める。

(五) 原告盧道日(一九四四年一〇月一日生)

(1) 被害者

氏名 盧鳳南(創氏名・河原鳳南)

本籍 大韓民国江原道洪川郡内面美山里六四五

生年月日 一九一九年二月四日生

(2) 強制連行の状況等

原告盧道日の父盧鳳南は、徴用されるまで本籍地において農業をして生活していたが、その生活は山に入ってこうぞを取って食べたりするような至って貧しい生活であった。当時の家族構成は、原告の祖父、祖母、父、母、父の弟、妹の六人家族であった。父の学歴はない。

盧鳳南は、原告盧道日が生まれる一〇か月前である一九四三年一一月二二日、日本人の警察官と朝鮮人の面書記が家にやってきて連れて行かれた。令状などは何もなかったが、抵抗はできなかった。盧鳳南は、面事務所に連れて行かれて、その後帰って来なかった。

一九四五年六月、被告から遺骨が送られてきて、盧鳳南の死亡を確認した。盧鳳南と一緒に徴用された人の話では、北海道から九州の炭鉱に送られ、そこで働いているとき、空襲で避難し、そこから出るときに爆撃で死亡したとのことであった。

(3) 連行後の家族の生活状況等

原告盧道日自身は、父が連れて行かれた後に生まれたので、その当時の状況はよくわからないが、土地を持っていない人間にとって、生活は当然苦しかった。原告盧道日の母は、父の遺骨を受け取った後、原告盧道日が三歳の時に原告盧道日を祖父母に預けて再婚した。その後結核で亡くなったと聞いたが、いつ亡くなったかはわからない。

原告盧道日は、戦後農業をして祖父母の面倒を見なければならなかったので、小学校にも満足に行けなかった。一六歳の頃から小作で働き、二三歳の時に結婚し、その後軍隊に入ったが、除隊後農業を続け、年に二〇万円の利益を得ている。家族は妻と五人の子供がいるが、現在医療保護を受けている。

(4) 原告盧道日の請求

原告盧道日は被告に対し、父盧鳳南を強制連行して死に至らしめたこと、原告を孤児の生活に陥らせたことについての陳謝及び賠償・補償を求める。

(六) 原告白官周(一九三一年一月二一日生)

(1) 被害者

氏名 白弘周(創氏名・白川弘周)

本籍 大韓民国江原道瑞石面上軍杜里

生年月日 一九二八年一月二日生

(2) 強制連行の状況

一九四四年一二月三〇日、警察と里長が原告白官周の自宅に来て、原告白官周の兄である白弘周(当時一六歳)を無理矢理連れて行った。目的地がどこで、目的が何であるかもわからなかった。

(3) 損害の発生原因事実

その後、白弘周からの手紙で、同人が炭鉱で働いていることはわかった。空腹に苦しんでいること、故郷が懐かしいなどと書かれていたことから、とうもろこしで飴を作り、二、三度送ったが、同人に届いたかどうかわからない。

次の年の稲穂の伸びるころである一九四五年の四月か五月ころに、面事務所から兄白弘周の遺骨を受け取り、同人の死亡を知った。

解放後、白弘周の友人で一緒に福岡県嘉穂郡にある上山田炭鉱で働かされていた兪鉉圭から、白弘周は、炭鉱事故が原因で、同炭鉱の金剛寮において死亡したことを聞き知った。白弘周が強制連行された後、原告白官周は、幼いながらも大人と一緒に薪集めや木の皮を剥いで集めたりしなくてはならず、辛酸を嘗めて来た。

(4) 身分関係

原告白官周は、三人兄弟の三男であり、白弘周は次男である。白弘周は未婚のまま死亡した。原告白官周の両親及び長兄ともに死亡している。白弘周の相続権者は原告白官周である。

(5) 原告白官周の請求

原告白官周は、兄白弘周の遺骨を受け取った後、被告から慰めの言葉すら受け取っていない。よって、原告白官周は被告に対し、公式の陳謝と賠償・補償を求める。

(七) 原告池東萬(一九四四年六月三日生)

(1) 被害者

氏名 池丁山(創氏名・不明)

本籍 大韓民国江原道洪川郡北方面菱坪里九五

生年月日 一九一九年

(2) 原告池東萬の父池丁山は、一九四三年未詳の日、近くの畑で仕事中、警察巡査と面事務所の職員に襲われ、家にも戻さずトラックに乗せられて、そのまま北海道に送られた。池丁山は、北海道炭鉱汽船株式会社夕張炭鉱に連行されたが、その炭鉱で作業中に落盤事故により全身打撲傷を受け、また、急性肺炎に罹ったにもかかわらず、治療もしてもらえないまま帰還させられたため、三か月後、症状が悪化して遂に死亡した。

(3) 父池丁山の死亡により、原告池東萬は、母親李乙順の下で成長したがため、ろくな教育も受けずに、父無き独子として今日に至っている。

(4) 原告池東萬は被告に対し、その父である池丁山をかように虐待したことと受傷者を放棄の状態で扱い、遂に死亡に追い込んだことについての公の真実の謝罪及び賠償・補償を求める。

(八) 原告金昌淳(一九二五年八月一四日生)

(1) 被害者

氏名 金龍寛

生年月日 一九一二年二月一四日生

(2) 強制連行前の生活状況

原告金昌淳の叔父である金龍寛は、連行当時、大韓民国江原道横城郡公根面富倉里において、農業に従事しながら生計を立てていた。原告金昌淳は、五歳の時に父が死亡したことから、母とともに金龍寛の下で、同人の農業を手伝いながら生活をしていた。原告金昌淳にとって、金龍寛は亡き父に代わる重要な人であった。

(3) 強制連行の状況

一九四三年四月ころ、金龍寛が農作業に従事中、駐在所の巡査(日本人)と面書記(朝鮮人)の二人が来て、金龍寛を強制的に連行して行った。当時、原告金昌淳は一六歳であった。

原告金昌淳は、金龍寛が強制連行される場にいなかったが、原告金昌淳の母が金龍寛が連行されて行くのを見ていた。その母の証言によると、同人が金龍寛を連行する巡査、面書記に対し、金龍寛をどこに連れて行くのかを問う暇もなく連行されたとのことであった。

(4) 連行先及び死因

金龍寛が強制連行された一年後に、金龍寛の遺骨とともに吉隈鑛業所と記載された同人の印鑑証明票が送られてきた。それで初めて、原告金昌淳は、金龍寛が九州にある吉隈鑛業所に労務者として送られたことを知った。加えて、金龍寛が坑内作業中に落盤事故で即死したことも知った。

(5) 連行後の家族の生活状況

金龍寛が日本に強制連行された後、残された原告金昌淳を含む家族は、貧しい生活を強いられることになった。被告は、働き手であり、かつ原告金昌淳にとっては父に等しい人であった金龍寛を奪ったばかりか、原告金昌淳を含む家族らに対し、銅の食器、匙などの供出を命じたほかに、米、麦、綿などを見つけ次第持ち去ったのであった。

(6) 原告金昌淳の請求

大事な人命を奪った被告は、強制連行の責任を取らざるを得ない。残された家族の生活の困窮は目に余るものであり、原告金昌淳は、何らの事後対策のない被告のやり方に憤慨している。

よって、原告金昌淳は被告に対し、公式の謝罪と賠償・補償を求める。

(九) 原告洪淳棋(一九二六年二月五日生)

(1) 被害者

氏名 洪淳祚(創氏名・山田淳祚)

本籍 大韓民国忠清南道大徳郡儒城面九岩

生年月日 一九二三年四月一〇日生

(2) 強制連行前の生活状況等

洪淳祚は、原告洪淳棋の兄であり、家族として父チョンウ、母ファン・ハンスンの他に妹スンネと弟スンギル(淳吉)がいたが、父は原告洪淳棋が一〇歳の時死亡し、その七日後に弟スンギルが出生した。

原告洪淳棋の家族は、大韓民国忠清南道大徳郡儒城面九岩三番地に居住し、父が存命中は農業で、父死亡後は母が野菜の行商をして生計を立てていたが、生活は貧しく、食事も一日一回とれれば良い方で、食事を準備することすらできない日もしばしばあり、兄弟は全員小学校にも通うことができない状態であった。

(3) 強制連行の状況

洪淳祚は、一九四一年二月一〇日ころ、一七歳で被告により強制連行された。同日の朝食中、面の金千万班長が洪淳祚に対する徴用令状を持って、原告洪淳棋の家に現れた。洪淳祚は、即時に何の荷物も持たずに面事務所に出頭した。

その際、連行の目的、連行先、徴用期間等は一切知らされなかった。なお、洪純祚が何の抵抗もせずに面事務所に出頭したのは、令状が来たのに出頭しなければ、警察官に逮捕され、監獄に入れられるのがわかっていたからである。

(4) 強制連行後の家族の生活状況等

洪淳祚は、強制連行当時、農場で働いてお金を稼いでいた。原告洪淳棋はまだ一四歳と年少であったため、働くことはできず、洪淳祚の強制連行後、家族はますます貧しい生活を強いられることになった。

強制連行後、約一年間は洪淳祚の消息は不明であった。

一九四二年三月か四月に、洪淳祚から手紙が来た。母はこれを受け取ったが、字が読めなかったので、そのまましまい込んだ。原告洪淳棋も字が読めなかったので、母に秘密にその手紙を持ちだし、字が読める人に読んでもらったが、洪淳祚が青森県の近辺に連行されたことしかわからなかった。なお、原告洪淳棋の弟は、連行先が鉄工所であったと記憶している。一九四三年夏ころ、洪淳祚から二通目の手紙が来た。現金が少々は入っていたが、やはり母がしまい込んでしまい、内容はわからなかった。一九四四年夏ころ、三通目の手紙が来たが、やはり母がしまい込んでしまい、内容はわからなかった。その後、洪淳祚からの連絡は一切ない。

一九四五年の朝鮮解放時、原告洪淳棋は、日本人の経営する果樹園で労働していたが、解放後は農業をして暮らしている。妹は朝鮮戦争の時に病気で死亡し、母も一九八七年ころ死亡し、現在は原告洪淳棋と弟だけが生存している。

解放後も、洪淳祚の消息は、現在に至るまで、生死も含めて一切不明である。原告洪淳棋の母も兄弟も、洪淳祚が生きて帰ってくるのを、少なくとも被告から何らかの知らせがくるのを、ずっと待ち続けていた。母は、死亡前の一〇年間、毎朝目がさめると、門の前に立って、洪淳祚が帰ってくるのを待ち続けていた。しかし、現在に至っても、洪淳祚は帰ってこず、被告はその消息はおろか生死すら明らかにしない。

(5) 原告洪淳棋の請求

以上のように、原告洪淳棋は、被告が兄である洪淳祚を強制連行したこと、また、右強制連行後現在に至るまで同人の消息も生死も判明せず、被告もこれを明らかにしないことにより、多大な精神的苦痛を受けた。また、原告洪淳棋の家族を経済的にも支えていた洪淳祚の強制連行によって、残された家族はさらに悲惨な生活を強いられた。

よって、原告洪淳棋は被告に対し、洪淳祚の死亡原因を確認の上、公式の謝罪と賠償・補償を求める。

(一〇) 原告李相翼(一九四二年二月三日生)

(1) 被害者

氏名 李奇淳(創氏名・星山奇淳)

本籍 大韓民国江原道洪川郡北方面上花界里三一九番地

(2) 強制連行の状況等

原告李相翼の父である李奇淳は、一九四四年、当時三二歳の働き盛りにふさわしく伝来の土地を耕作しながら中農の家庭を営み、村一番の有志として、強要された国防献金、憂国貯金等、面事務所や隣組(愛国班)というべき監視組織の行政末端の班長等を歴任しながら、何とかして徴用だけは免れようとしていた。しかし、戦局が苛烈になるにつれ、李奇淳は、遂に徴用され、北海道の炭鉱に連れ去られた。その時原告李相翼は生まれたばかりで李奇淳の顔の見覚えもない。

李奇淳と一緒に連行された人の話によると、坑内作業中に崩落事故に遭い、坑内救出作業が進行中なのに、横の坑道を保護するという理由でそのまま坑口を塞いだため、その時何十人の朝鮮人労働者が一挙に死んだということだった。被告は原告李相翼に対し、未だに遺骨や遺品等一切届けていない。

(3) 連行後の家族の生活状況等

連行後、父がいないので、原告李相翼の家族の生活は大変苦しかった。子供でもできる汚物の洗濯や家事の手伝いの仕事があったので、原告李相翼も含め兄弟達はそうやって労賃を得て生活していた。母は、男のする仕事も全部した。原告の姉達は、口減らしのため、若くして結婚した。

原告李相翼らの家族は、父の帰りを待ちわびていたが、朝鮮戦争の時に避難先で、北海道の炭鉱で父と一緒に働かせられていた人から、父の死亡の事実を聞いて知ったのである。

その後、一九六三年か四年に、韓国政府から対日請求権について確認するように通知が来て、原告李相翼は、春川税務署に行き、父の死亡の事実を確認した。

(4) 身分関係

原告李相翼は李奇淳の次男である。原告李相翼の兄は七歳で死亡している。そのほか姉が三人いるが、そのうち長女は一六歳で結婚し、現在も健在である。次女、三女は、それぞれ一七歳、二〇歳で結婚したが、いずれも現在は死亡している。よって、李奇淳の相続人は、原告李相翼である。

(5) 原告李相翼の請求

原告李相翼は被告に対し、公式の謝罪と賠償・補償を求める。

(一一) 原告李相禮(一九三二年五月二一日生)

(1) 被害者

氏名 李庚淳

本籍 大韓民国江原道洪川郡北方面上花界里三一九番地

生年月日 一九一六年四月一六日生

(2) 強制連行前の生活状況

李庚淳は、強制連行当時、本籍地において、未婚のまま、母、兄、兄嫁、姪(原告李相禮)及び甥と居住し、一家の大黒柱として農業に従事していた。李庚淳は、国民学校(小学校)卒業後、農業に従事したが、その生活は苦しく、貧しさを余儀なくされていた。

(3) 強制進行の状況等

一九四二年四月末日、李庚淳は、家の近くの田畑で農作業を終え、帰途についた。すると、当時洪川郡北方の労務係をしていた面職員、制服を着た日本人巡査、日本の民間人(日本語を話していた)らが、帰宅途中の李庚淳を呼び止め、有無を言わさず面事務所に連行した。李庚淳の兄嫁(原告李相禮の母)、村人が、この連行の状況を離れた場所から目撃していたのである。

李庚淳は面事務所に連行されたが、そこには同じように強制連行された者達がおり、李庚淳を含む被強制連行者らは、面事務所の庭に座らされていた。そして、面事務所の職員らは、連行してきた者達が逃げ出さないよう監視をしていたのである。これは、李庚淳が連行され、不安・心配のあまりその後を追ってきた兄嫁が目撃していた。また、その時、日本の民間人が、「これから満州方面に行く。お前達は幸運なやつらだ。満州へ行けば大いに金儲けができる。田や畑は無料でもらえる。そこで働けば、三年後にその土地は全部自分のものになる。」と言っていた。これも李庚淳の兄嫁が聞いていたのであった。

こうして、李庚淳は強制連行されたが、面事務所等からはもちろん、李庚淳からもその家族には何の連絡もこなかった。

家族は、李庚淳がどこに連れて行かれたか分からず不安な日々を過ごしていたところ、一九四二年の夏ころ、李庚淳から家族に「北海道の炭鉱で酷使されている。」という内容の便りが一回届いただけであった。その後、李庚淳は消息を絶ち、生死不明のまま現在に至るのである。なお、その手紙は、死んだ祖母が大事に持っていたが、朝鮮動乱の時失った。

(4) 連行後の家族の生活状況等

貧しい生活を余儀なくされていたところに、一家の働き手であった李庚淳を強制連行により失い、残された家族の生活はいっそう苦しくなった。李庚淳の兄(原告李相禮の父)は働けず、結局、その嫁(原告李相禮の母)が農業に従事して生活を支えるしかなかった。そして、李庚淳の母(原告李相禮の祖母)は家事を担ったが、その傍らで他家の仕事を手伝い家計の足しをしたのであった。貧しい生活の中、原告李相禮は、小学校を出たらすぐに農業に就かざるを得なかった。現在も、原告李相禮は、農業に従事しているが、生活は苦しく貧農である。

(5) 原告李相禮の請求

李庚淳の消息は不明のままであり、その死を認めざるを得ないとしても、李庚淳を襲い強制連行した被告は、その死の状況を明らかにし、かつ、遺骨を返還する義務がある。あわせて、被告は、李庚淳を襲い強制連行したことについて公式に謝罪をすべきであり、かつ、賠償・補償をする義務がある。

2 軍属原告ら

(一) 原告全金(一九二三年五月一日生)

(1) 強制連行前の生活状況

原告全金は、強制連行された当時、大韓民国江原道麟蹄郡南面富坪里四班に、他人の家の離れを借りて、父母、妻子の五人で暮らしていた。原告全金は、当時二三歳で、日雇の仕事をしながら、父母、妻子を養い、その間、定職に就こうと職を探していたのであった。

(2) 強制連行の状況

原告全金は、一九四四年四月初旬、居住地を訪れた面の労務係の職員により強制連行された。

その日の朝、予告なしに訪れた面の職員は、離れで起きたばかりの原告全金に対し、「話があるからちょっと出てこい。」と言い、原告全金が離れから外に出ると、その職員が「ついてこい。」と言うので、仕方なく原告全金はついて行った。原告全金は、その職員に対し、口答えをしたりして拒むと、父母や妻子に危害が及ぶおそれがあるので、黙ってついて行ったのであった。着いたところは面事務所の倉庫であった。原告全金はその倉庫で二泊した。その倉庫は面事務所の職員達や消防隊員が監視しており、原告全金は逃げ帰ることができなかった。倉庫に宿泊させられているとき、人員を補充するために次々に朝鮮人が連行されて来た。原告全金の両親が面の事務所に着替えを届けてくれたが、原告全金は彼らに会うこともできず、声をかけることもできず、ただ彼らが帰って行く姿を窓から見送ることしかできなかった。

倉庫で二泊した後、行く先も告げられず、原告全金は他の強制連行された朝鮮人らと共にトラック六台にすし詰め状態で乗せられ、一日かかって着いたところは、春川(市)にある旅館であった。そこには、道庁の日本人がいて、旅館で一泊した後、原告全金を含む連行された者達は、その日本人に引率されてソウルへ連れて行かれ、同所で一泊し、南山神社に参拝させられた後、夜汽車で釜山へ連れて行かれた。釜山では、原告全金を含む被連行者らは、日本軍に引き渡され、身体検査(肛門に綿棒を突っ込まれた。)を受けさせられた後、空き家で一泊した。

釜山で一泊した後、原告全金は、船に乗せられた。その船は日本行きの船であったことから、原告全金は、その時初めて、日本へ連れて行かれるのだと思った。その船には、約五〇〇人の朝鮮人が、五つの郡からそれぞれ一〇〇名ずつ集められ、乗せられていた。連行された原告全金及び朝鮮人らは、船倉で一泊し、翌日、船は下関へ着き、原告全金らは上陸した。上陸した後、連行された原告全金らは倉庫へ入れられ、同所で一泊した。その間、連行された者達に与えられた食事は一日一食であった。

下関での一泊後、原告全金を含む朝鮮人らは、汽車に乗せられ、着いたところは、函館であった。汽車に乗っていた間の食事は、名古屋付近で木箱に入れられた梅干し入りの弁当が一つ配られただけであった。

原告全金らは、函館から小樽へ汽車で連れて行かれ、小樽付近の手宮国民学校に着いたら、それまで着ていた各自の服から、軍属として、階級章のない軍服を着せられたうえ、ゲートルと帽子も渡された。

(3) 連行後の生活及び北千島への連行

かくして、原告全金は、自分が軍属にさせられたことがわかった。その時、小田切伍長は、原告全金らに対し、一か月に一五〇円を支給する、一二〇円は朝鮮にいる家族に送金ができ、残りの三〇円は小遣いになると言った。しかし、現実に原告全金が支給を受けたのは、小樽において、一九四四年四月分、同年五月分の各一か月三〇円に過ぎず、しかも、その一か月三〇円ですら、貯金するなどとの名目で天引きされ、結局、原告全金の手元には幾らも残らなかった。

小樽において、原告全金及び連行された朝鮮人は、約一か月位、手宮国民学校の教室の机を片づけたところに寝泊まりさせられた。小樽では、原告全金を含む連行された朝鮮人は、分隊、小隊に分けられ、小田切伍長という日本人の指揮の下、軍事訓練といって、陸で行進の練習等を、また、海では救命胴衣を着せられ海に放り込まれて、気絶寸前になったところで引き上げられる等の訓練をさせられた。

一九四四年五月四日、原告全金を含む朝鮮人らは軍艦に乗せられ、小樽から、北方、北千島列島へ連れて行かれた。乗船した後、原告全金は、北千島の柏原へ連れて行かれることがわかった。軍艦には約三〇〇〇人が乗り込み、そのうち朝鮮人は約一〇〇〇名(江原道出身は約五〇〇名、黄海道出身は約五〇〇名)であった。あと一時間ほどで柏原港に着くというときに、原告全金らが乗船していた軍艦は、魚雷を受けて沈んだ。魚雷が一発当たると船は一回転し、もう一発の魚雷は反対側の船腹に命中した。この時、船底に沈んだ者以外は海に飛び込んだ。船の近くに浮かんでいた沢山の人達は、船がぐっと沈む時に大きく海が陥没するかたちとなり、一緒に巻き込まれて沈んで行った。この時の被災で江原道出身者約五〇〇名中わずか一〇〇名足らずが生き残り、あとの人達は海の藻屑と消えていった。

原告全金は、救命艇に助けられた後、柏原港へ上陸し、打ち上げられた九人の遺体を埋葬した。一日中燃やして頭蓋骨を拾い、一から九まで番号を付けて埋めたのであった。柏原からは晴れた日にはカムチャッカ半島が見えた。

翌日、生き残った原告全金らは、柏原からよく見える近くの島まで、船で三〇分程かかって連れて行かれた。その島からはカムチャッカ半島がよく見えた(柏原港とカムチャッカ半島の中間のシュムシュ島と思われる。)。当地において、江原道、黄海道出身者約一〇〇名位で一個中隊に編成させられた。

(4) 連行先での労務内容及び罹患

原告全金は、連行された島において、飛行場を作る労務に従事させられた。原告全金らは、来る日も来るもスコップで土を掘ってはトロッコに乗せて運ぶ作業に従事させられた。この点に関して、北方軍経理部により雇用された朝鮮人労働者は、北・中・南千島方面の飛行場設定に従事し、作戦準備促進にあずかって力があった、との事実が指摘されている。当地(島)にいた日本人は、全て軍人であった。

当地における朝鮮人労働者に対する待遇は、労働時間も長く、食事は極端に少なく、人間扱いではなかった。一例をあげると、雨が降っても、仕事は休みにならず、厚いオーバーを着せられ、雨の中でスコップで土掘りをさせられた。しかも、着替えが支給されず、濡れたままの服を着て寝るしかなかった。食事はわずかな米だけであり、空腹の余り松の実を焼いて食べたり、ねずみを捕まえ皮をはいで食べたりした。こうした理由で、連行された朝鮮人らの殆どは顔がむくむなど脚気の症状を呈する等悲惨な状態であった。また、朝鮮人労働者に対する制裁が毎日のように行われ、うつぶせにされてこん棒で叩かれたり、二、三人が角棒を膝に挾んで正座させられたりした。

原告全金は、当地で、数か月飛行場作りの仕事に従事したが、倦怠感、息苦しさ、膝の痛み、歩行困難の症状がでた。それにもかかわらず、日本軍は、原告全金に対し、何度も仕事だといって現場まで引きずり出したのであった。その後ようやく、日本軍は、原告全金が肋膜炎と脚気に罹患していることを認めた。そこで、原告全金は、一九四四年一〇月ころ、小樽へ物資輸送船で送還され、当地の病院へ入院させられた。病院といっても普通の家の二階で、約一か月位経った後、まだ実際には治っていないにもかかわらず、治ったと言われ、退院させられたのであった。退院後、原告全金は、小樽に近い鉱山で働かされた。

その後、北千島の柏原にいた中隊が帰ってきたので、原告全金はそれに合流した。一九四四年一二月末、原告全金を含む朝鮮人らは、小樽から青森へ移動させられ、列車で九州へ行き、釜山へ帰ってきた。釜山では、日本人の引率の下、春川市へ戻った。春川市では、洪川郡の職員、面の職員ら二名が迎えにきていた。

結局、原告全金を含む連行された江原道出身者は、約五〇〇名いたが、八か月後には一〇〇名足らずしか祖国朝鮮に戻れなかった。

(5) 帰国後の生活

原告全金は、祖国朝鮮に戻った後、一九四五年から小作として農業に就いたが、先に罹患した肋膜炎と脚気を原因とする背中の痛みや歩行困難、また、右病気と併せて極限状態下での労務内容を原因とする精神不安定状態が続き、満足に仕事もできず不自由な暮らしを経て現在に至っている。

また、原告全金が戻ると、妻は、あまりにも苦労をしていたことから、四歳の息子を捨てて他家に嫁に行ってしまっていた。その後、その四歳の息子を育てたが、ベトナム戦争で戦死した。

(6) 原告全金の請求

原告全金は、日本へ強制連行され、働かされた挙げ句、病気にかかり祖国朝鮮に戻った。強制連行の過程で軍属として手当を支給すると言われたが、それを受けることもなかった。しかも、被告は、原告全金及び一緒に強制連行された同郷の仲間の死に対して、一片の謝罪もしていない。

よって、原告全金は被告に対し、誠意ある謝罪と賠償・補償の支払いを求める。

(二) 原告朴大興(創氏名・新本大興、一九二二年二月一三日生)

(1) 強制連行の状況等

原告朴大興は、一九二二年、江原道春川郡西面芳洞二里三番地に生まれた。原告朴大興の家は、自作農(木工も兼業)であったが、日本の中国への侵略戦争の開始時期以降になると、供出が特に厳しくなり、家族が食べるものすら残らない状態となった。

一九四二年の冬、原告朴大興は、家族を扶養するためと祖先の祭祀のために三カマスの米を供出しないで隠しておいたところ、それが見つかってしまったため、郡庁の労務係の役人に不逞の輩と睨まれ、「お前の家は不届きだから書類に判を押しなさい。」と言われ、どういう書類かよくわからないままに判を押した。すると、その書類は後に徴用承諾書であることが判明した。

一九四三年一月六日に、日本人の警察官と面事務所の労務係が徴用令状を持ってやって来て、その場で徴用された。嫁に来たばかりの原告の妻(当時一九歳)はただおろおろするばかりであった。

原告朴大興は、近所の二人の朝鮮人とともに面の役場に連行された後、春川の郡庁に連れて行かれたが、そこには一〇〇人ばかりの朝鮮人が集められていた。倉庫で一泊した後、綱に繋がれて貨物列車に詰め込まれ、釜山まで連れて行かれた。行き先がわからないまま、さらに船に乗せられて下関、列車に乗せられて横須賀へと連行された。この間、逃亡を防止するために数人の監視者がついていた。中に一人、軍服を着た偉そうな人間がいた。

(2) 強制労働の状況等

原告朴大興は、横須賀海軍施設部に編入され、二階建ての汚い収容所に入れられた。その収容所には全体で約五〇人の朝鮮人が収容されていたが、四畳半の部屋で五人が寝起きさせられ、外出は一切禁止されていた。また、給与は強制貯金させられた(この強制貯金は返還されていない。)。

原告朴大興は、最初の一五日間は軍事訓練を受け、皇国臣民の誓いや君が代等を暗唱させられたり、「万朶の桜か襟の色……」などという軍歌を意味も分からないまま歌わされた。

その後、「衛生員」とされて便所の汲み取り作業等をやらされた。一年程経過した後、地下壕建設班に入れられてトンネル掘りに従事し、北海道女子挺身隊の日本人女性三名が押す大八車を引かされた。作業班長は北海道出身の山本という人で、しばしば足蹴にしたり、正座を命じたりした。

労働時間は、夏は午前六時から午後七時まで、冬は午前六時から午後五時までであった。食事はとうもろこし、麦、少々の米だけで、ともかくひもじかった。

(3) 労災事故の発生

一九四五年の二月一〇日、原告朴大興は、地下壕建設作業に従事中、大八車を引いている時に、倒れて大八車の下敷きとなり、第一一、一二胸椎骨傷等の重篤な傷害を負い、労働に従事することができなくなった。原告朴大興は、ろくな治療も受けられないままにいたところ、お前は家に帰れということになり、同年五月一日から八月三一日までの帰郷療養許可証を軍医から渡された。

(4) 後遺症の存在と解放後の生活

原告朴大興は、帰郷した後も、軍隊の労務係(日本人)に再び徴用されそうになったが、帰郷療養許可証の期限までに日本の敗戦(解放)となったので助かった。原告朴大興は、故郷に帰っても働けない状態が続き、解放後も、労災事故の後遺症の治療のため、頭の手術や病院通いをして、田畑も牛も売り払い、家もなくなった。現在も、頭が痛んだり耳鳴りがしたりし、奇形となった右親指は大きく骨が突き出している。

原告朴大興の家族の生活は、妻がりんごの行商等で支え、苦しい解放後の歴史を生きてきた。

(5) 原告朴大興の請求

原告朴大興は被告に対し、生涯を病床で送っている同原告及びその家族達の辛苦に対する陳謝と賠償・補償を求める。

(三) 原告朴菊希(一九四二年四月一日生)

(1) 被害者

氏名 朴章煥(創氏名・森山章煥)

本籍 大韓民国江原道洪川郡化村面城山里三五四

生年月日 一九一五年九月一八日生

(2) 強制連行の状況等

原告朴菊希の父朴章煥は、大韓民国江原道洪川郡化村面城山里三五四番地に居住し、農業をしながら家族を養っていた。当時の家族構成は、祖父母、父母、父の兄弟(五人)、姉そして原告朴菊希であった。原告朴菊希は、父の強制連行当時、生後一〇〇日前後の頃であった。

今は亡き母及び叔父の輝在から聞いた父朴章煥の連行の状況は、次のとおりであった。連行前から、日本の巡査が朴章煥が逃亡しないように監視をしていたが、五月の田植えの時期の夜八時過ぎ、サーベルを提げた巡査と面の郡庁の職員の二人の日本人が来て、無理矢理朴章煥を駐在所に連行した。その際、同原告の祖父母は、朴章煥の連行に抵抗したがままならず、結局、朴章煥はその妻(同原告の母)に対し、「自分が帰ってくるまで、娘達を育てろ。」との最後の言葉を残し連れ去られてしまった。

母から聞いたところによると、父朴章煥は、南洋群島のある島のジャングルの中で車の運転兵として戦場で働かされ、同所において飢え死にしたとのことであった。

(3) 連行後の家族の生活状況等

父朴章煥が強制連行された後、父の兄弟は日本による強制連行をおそれて家を離れ、母はもう息子ができないという理由で家を出されてしまったのである。

朝鮮戦争が勃発すると、父の兄弟は戦場に行き、家に残ったのは、満八歳の原告朴菊希と三歳上の姉、五歳上の叔母であった。朝鮮戦争当時、祖父母は既に他界し、父母のいない原告朴菊希とその姉は、残された家族とも離ればなれになり、その後、原告朴菊希は一人、休戦協定までの三年間、砲弾の降りそそぐ戦場を彷徨した。休戦後、原告朴菊希は、孤児院で育つなどし、筆舌に尽くしがたい苦難の中を生き抜いてきた。父を日本に強制連行され、その結果母も失うなどした原告朴菊希のこの五〇数年間にわたり内に去来するものは、父の面影であり痕跡である。

(4) 身分関係

朴章煥には妻と二人の女の子(原告及びその姉)がいたが、その妻は朴章煥の死亡後再婚しており、相続権を受け継ぐべき原告の姉は、精神的に正常でないことから、大韓民国の相続法と姉の委任により、原告が本訴を提起した。

(5) 原告朴菊希の請求

原告朴菊希は被告に対し、これまでの苦難に対する謝罪及び補償・賠償並びに父朴章煥の戦死の状況・遺骨の返還を求める。

(四) 原告崔徳雄(一九三八年六月二五日生)

(1) 被害者

氏名 崔相準(創氏名・高山相準)

生年月日 一九一九年一月一五日生

(2) 強制連行前の生活状況

崔相準は、強制連行前、日本と朝鮮を行き来する貨物船の船乗りの仕事に従事していた。妻と子である原告崔徳雄は、漁村であり港のある住所地(大韓民国江原道溟州郡注文津邑五三〇番地)に居住し、崔相準の給与により暮らしていた。原告崔徳雄は、父崔相準が日本から土産としてみかんや靴を持ってきたのをおぼろげに記憶している。

(3) 強制連行の状況等

原告崔徳雄は、今は亡き母から、崔相準が日本軍属として強制徴用されたのは、原告崔徳雄が三歳当時の一九四二年であり、崔相準が乗り組んでいた船も日本国に徴発された、と聞かされていた。

強制徴用された後、崔相準からの便りはなく、同人の消息が分かったのは、一九四七年六月一四日、呉地方復員局人事部長鹿江隆より発送された公報に「一九四五年四月中旬頃ミンダナオ島ダバオ市外にて米軍と激烈な戦闘中、戦死されたものと認めた」記載されていたことから、その死が明らかになったのである。

(4) 残された家族の生活状況等

崔相準が強制徴用された後、残された家族の生活は一変した。その妻は、原告崔徳雄を抱え、女手一つで水産物の行商をしたり、近所から頼まれた縫い物の仕事をするなどして江原道の漁村での苦しい生活を余儀なくされた。原告崔徳雄も一〇代の後半から漁船の乗組員としての仕事に就くようになったのである。

(5) 原告崔徳雄の請求

被告は、崔相準を強制的に徴用し利用しながら、その死に対しては一片の通知をするのみで、未だ遺骨の送還さえもない。崔相準を強制徴用した被告は、原告崔徳雄に対し、その遺骨の返還をする義務があるのはもとより、崔相準を強制連行したことについて公式に謝罪をすべきであるばかりか、賠償・補償をする義務があるというべきである。

(五) 原告鄭聖祚(一九三三年三月七日生)

(1) 被害者

氏名 尹成模(創氏名・平沼成模)

本籍 大韓民国江原道春城郡東山面原昌里三三三―一

(2) 原告鄭聖祚の夫尹成模は、一九四〇年一月二〇日、軍属として強制連行され、南洋の南トラック島に送られた。海軍軍属として勤めた尹成模は、現地で作業中、米軍の空襲により両上肢及び背中に破片を受け、治療も受けられないまま一九四三年一〇月一五日に帰国させられたが、傷瘡はますます悪化し、治療のすべもなく腐敗し始めた。尹成模は、二〇余年病床に就いて苦労したが、一九六七年死亡した。

(3) 原告鄭聖祚は被告に対し、尹成模を強制連行し、重傷を負わせ、治療もせずに放棄の状態で一文の賃金も支払わずに帰還させた事実について、非人道的行為として過去を反省し、公式の陳謝と賠償・補償を求める。

(六) 原告鄭賛教(一九三三年一月一八日生)

(1) 被害者

氏名 鄭然守(創氏名・川本然守)

本籍 大韓民国慶尚北道慶州郡陽北面魚日里一一一三

生年月日 一九一〇年六月二四日生

(2) 強制連行前の生活状況

一九四二年ころ、原告鄭賛教は、九歳、国民学校三年生で、本籍地において、父である鄭然守(当時三二歳)、母及び妹三人(長女七歳、次女五歳、三女一歳)と暮らしていた。鄭然守一家は、農業を営み、自作として約五〇〇坪を、小作として約八〇〇坪を耕作し、主に米作を行っていた。

当時、米作で一家六人が生活するためには、年間約四〇マル(斗)の収穫が必要であったが、自作の収穫の半分は日本政府に供出しなければならず、小作については収穫の半分を地主に小作料として取られたので、結局、必要量の半分しか残らなかった。

そのため、鄭然守は、農閑期には肉体労働の出稼ぎをしたり、山で薪を集めて市場に売りに行ったりし、母は機織りや縫い物の内職をして家計を助けていた。また、母方の祖母が書道の先生をしていたこともあって、母は、読み書きができたので、村の人たちの手紙の代書をして野菜などをお礼にもらっていた。このような苦しい生活の中でも、両親は一人息子の原告鄭賛教に対し、勉強をしっかりするように言って、農業や家計を助ける仕事は一切させなかった。

(3) 強制連行の状況等

鄭然守は、一九四二年一一月中旬ころの真夜中、被告により強制連行された。原告鄭賛教は、その前日、学校から帰ってそのまま遊びに出かけ、その日の夕食は友人の家で食べて夜遅く帰宅し、そのまま就寝した。原告鄭賛教が翌朝起床し、朝食の支度がしていなかったため、母にどうしたのかと尋ねたところ、母が鄭然守が真夜中に強制連行されたことを話してくれ、今日は学校に行かないように言った。誰が鄭然守を強制連行していったのか、令状があったのか等の詳細は母が話してくれず、また、隣の家とも離れていたため、近所の人も知らず、原告鄭賛教にはわからない。

(4) 強制連行後の家族の生活状況等

強制連行の日から約一か月半程してから、呉の海軍部隊長名の通知が来て、原告鄭賛教らは鄭然守が海軍の軍属として南洋群島に居ることを知った。

原告鄭賛教の母は、鄭然守の強制連行に激しい精神的衝撃を受け、強制連行の直後から食事も喉を通らなくなって病床につき、約六か月後の一九四三年五月六日に死亡した。

母の死後、兄妹四名は、親戚に引き取ってもらえなかったため、行くあてもなく釜山市に出て兄妹ばらばらになって仕事を探した。長女は住込みの子守の仕事につき、次女は三女を連れて住込みの家事手伝いの仕事に就いたが、三女は二歳で病死してしまった。原告鄭賛教は、住込みの仕事が見つからず、夜は駅で寝泊まりし、昼間は掃除の仕事等を探し、あるいは食堂で残飯を貰ったりして暮らしていた。

(5) 解放(日本敗戦)後の生活状況

一九四五年の朝鮮解放後、原告鄭賛教は、自転車のタイヤ修理の仕事をして生活し、一九五〇年、一七歳で韓国陸軍に入隊した。長女及び次女は、結局、小学校にも通うことができず、長女は一五歳で、次女は二五歳で結婚した。

原告鄭賛教は、二七歳の時結婚し、その後、故郷に残した田畑や家を見に行ったが、田畑は解放後日本から帰国した親戚の一人が売り払って他人のものになっており、家は賭場になっていた。

(6) 被害者の死亡状況等

解放後も鄭然守の生死は不明であったが、原告鄭賛教は、一九九一年八月ころ、日本の厚生省に調査を依頼し、同年九月ころ、厚生省援護局業務第二課第五資料係から「履歴事項について(回答)」と題する書面を受け取り、ようやく、鄭然守が、一九四二年一一月三〇日呉海軍建築部工員(海軍工員)に採用され、同日第一九設営隊に派遣され、翌一九四三年二月二二日、ニューギニアにおいて陸上戦闘により戦死したことが判明した。

原告鄭賛教は、その時まで鄭然守の死を知らず、外国で生きているかも知れないと思っていた。そして、韓国で生活するより、豊かな生活ができる外国の方が生きやすいのかも知れないと思っていた。

(7) 原告鄭賛教の請求

原告鄭賛教は、被告が父鄭然守を強制連行したことによって、強制連行後そしてその約三か月後の同人の死後約五〇年間もの間、同人の消息も死亡も判明せず、また、同人の強制連行が起因となった病気により母及び二歳の末妹を失い、大きな苦痛を受けた。また、右強制連行によって孤児となった原告鄭賛教ら幼い兄妹三人は、学校へも通うどころか、筆舌に尽くしがたい苦しい生活を強いられた。

よって、原告鄭賛教は被告に対し、過去の苛酷な行為を自ら悟り反省して公式の陳謝をすること及び賠償・補償を求める。

(七) 原告南相億(一九六五年五月一一日)

(1) 被害者

氏名 南道熙(創氏名・南道熙)

本籍 大韓民国江原道春城郡北山面楸谷里三三五

生年月日 一九二一年四月一二日生

(2) 強制連行の状況等

原告南相億の父南道熙は、大韓民国江原道春城郡(現在は春川郡)北山面楸谷里二三四番地で農業を営んでいたが、一九四一年末詳日に突然村に現れた日本人警察に他の村人とともに強制連行された。これに抗議した原告南相億の祖父母を日本人警察は殴る蹴るなどした。

そして、強制連行に反対する村人達や祖父母は警察の手で数珠つなぎにされて警察に連行された。警察でも、連行された村人達は殴る蹴るの暴行を受けた。原告南相億の住んでいた村はその後要視察村になり、農作物の強奪は一段と激しくなり、朝となく夕となく血眼になった日本人巡査の出入りは激しくなった。

村の古老達の言い伝えによると、強制連行に反対する南道熙を警察は拷問し、南道熙は全身打撲の状態であった。

(3) 強制連行先及び死因等

その後、南道熙は、日本国海軍軍属として徴用され、南洋群島ナオール島の飛行場建設に動員され、飢えとアメリカ軍の爆撃の中で昼夜の別なく飛行場建設の作業に強制的に従事させられた。連日の爆撃と土地特有のマラリヤに侵された同人は、一九四六年に病弱の身で故郷に帰ったが、連行当時の酷使が原因でその日から病の床についた。そして、一九八九年に亡くなるまで、ずっと病床の身にあり、生活力は全くなく、子供達も基本的な教育を受けさせることさえできなかった。二〇歳で連行され、二五歳にして帰還したが、亡くなるまでの生活は悲惨を極めた。原告南相億もまた、貧困の極みの中での生活を余儀なくされた。南道熙は生前その恨みが骨髄まで達していた。そして、原告南相億の恨みもまた同じである。

(4) 原告南相億の請求

原告南相億は被告に対し、被告が右事実を認め、過去の苛酷な行為を自ら反省して陳謝し、南道熙及び原告南相億が被った被害に対して賠償・補償をなすよう求める。

(八) 原告朴元植(一九二三年五月六日生)

(1) 被害者

氏名 朴貴福(創氏名・杉本政雄)

生年月日 一九〇五年一二月一八日生

(2) 強制連行前の生活状況

朴貴福は、一九四二年に徴用される前は、京都市四条に居住していた。同人は、一九歳の時から京都で織物工として働いており、徴用直前も六人の職人を雇って西陣織の工場を経営していたが、一〇人家族(妻、長男である原告朴元植夫婦、次男から五男、長女)で生活は貧しかった。朴貴福は、国民学校を卒業し、日本語は上手であった。原告朴元植は、一二歳の時に、祖父の法事で一時帰国した朴貴福に連れられて来日し、その後日本で生活をしていた。

(3) 強制連行及び死亡の状況

一九四二年に朴貴福に対して徴用令状が発行され、朴貴福は指定された場所へ出頭した。目的地や目的は聞かされていなかった。その後、家族へは一切連絡がなく、消息が不明であった。厚生省の死亡確認によれば、フィリピンネグロス島の海軍第二三五設営隊に所属し、一九四五年五月二二日、同島において戦病死したことが判明している。そして、朴貴福の遺骨は、戦後京都府在住の同人の弟が引き取り、現在京都の寺に安置されている。

(4) 強制連行後の家族の生活状況

朴貴福の強制連行後は、働き手を失い、同人の妻が細腕一本で働いて子供達を育てた。原告朴元植夫婦は終戦後韓国へ戻った。原告朴元植は、現在、韓国で左官業を営んでいる。

(5) 原告朴元植の請求

朴貴福は、一片の徴用令状によって、戦地へ送り込まれ、被告の戦争遂行の犠牲となったものである。原告朴元植は、父系第一順位の相続人として、被告に対し、朴貴福が被告の戦争遂行の犠牲となったことに対する謝罪と朴貴福及びその遺族の被った損害について賠償・賠償を求める。

(九) 原告厳在澗(一九四〇年八月二九日)

(1) 被害者

氏名 厳大変

本籍 大韓民国江原道寧越郡南面土橋里二九

生年月日 一九二三年二月二二日生

(2) 強制連行前の生活状況

原告厳在澗の父である厳大変は、普通学校卒業後、本籍地において、その妻及び原告厳在澗とともに暮らしていた。厳大変の実家は開墾地で米を作るなど農業をしており、厳大変も実家の農業に従事していた。

(3) 強制連行の状況等

一九四二年陰暦一二月ころ、厳大変宅に郡庁の労務係二名(日本人)が訪れ、在宅中の厳大変を連行して行った。当時原告厳在澗は三歳の幼児であったが、亡き母の証言によると、労務係の人は、有無を言わさず、奴隷のようにして厳大変を連れて行ったとのことであった。

(4) 連行先及び死因

原告厳在澗の母は、厳大変の消息を知ろうとして、東へ西へ狂ったように走り回っていた。その後、ようやく厳大変の消息が分かり、同人は、陸軍の燃料廠において自動車の運転の仕事に従事させられていて、一九四五年五月一〇日午前九時四七分、山口県岩国市にある五百五十岩国燃料所において、服務中に戦爆死した、ということであった。そこで、原告厳在澗の母は、日本へ行き、厳大変の遺骨を引き取ってきた。それは、終戦前のことであった。

(5) 連行後の家族の生活状況等

日本に父厳大変を奪われ、母は狂ったようになったばかりか、生活もどん底に陥った。母は、父厳大変が亡くなった三年後にその後を追うようにして亡くなった。残された幼い原告厳在澗は、両親のいない孤児として、父の兄弟の家を巡りながら路頭に迷うように育ったのであった。

(6) 原告厳在澗の請求

原告厳在澗は、国籍の如何を問わず自分の国のために死んだ人々に対する人道的な配慮が必要であると確信して止まない。

よって、原告厳在澗は被告に対し、公式の謝罪と賠償・補償を求める。

(一〇) 原告李運範(一九五九年三月七日生)

(1) 被害者

氏名 李啓成

生年月日 一九二四年二月一五日生

(2) 原告李運範の叔父である李啓成は、一九四二年二月、日本国海軍軍属として強制徴用され、南洋群島方面に配置され、主に輸送と飛行場工事に従事させられた。李啓成は徴用当時一九歳の少年であった。その後、李啓成の戦死の通知があったが、遺骨は帰っていない。李啓成は幼い頃連行されたので妻子も居ない。故に、家系が断たれ、家門の恥になりつつある。

(3) 原告李運範は被告に対し、この悲劇的な事実を認め、公式の謝罪と賠償・補償を求める。

3 軍人原告ら

(一) 原告陳萬述(創氏名・大原萬述、一九二三年一月一五日生)

(1) 強制入隊前の生活状況等

原告陳萬述が一九四三年に二一歳で入隊した当時の家族は、両親、妻、妹三人及び弟二人であった。父の農業で一家の生計を立てており、田畑は三〇〇〇坪位あり、裕福な家庭であった。

原告陳萬述は、六年間の普通学校を卒業して河東公立農業実習学校に通っていた。農業実習学校の生徒六〇名は全員韓国人で、校長と校長代理は日本人で、当時校長は「宮本」、校長代理は「岡野もといち」という人であった。学校のことは校長代理の岡野が取り仕切っていた。学校の授業は、午前中が一般学科で、午後が実習であり、また、神社参拝を行い、皇国臣民の誓詞を読まされていた。

(2) 強制入隊の状況等

原告陳萬述が農業実習学校の一年生であった一九四二年当時、志願兵制度があり、面の駐在所で入隊のための身体検査を行っていた。原告陳萬述も、巡査に来いと言われて身体検査に連れて行かれたことがあった。しかし、原告陳萬述は、入隊する気持ちがなかったので、身体検査の際に目や耳の検査をいい加減にやり、また、学科試験も適当に書いて不合格となっていた。

ところが、実習学校でも、志願兵を募ることになり、一九四二年八月から一〇月の間に、校長代理の岡野が、身体の屈強な生徒二〇人を呼び出して運動場に出し、そこで、志願兵の検査を受けるように強制された。面の駐在所で身体検査を実施したが、原告陳萬述は、前にやったように、目や耳の検査では嘘をついて、いい加減にやったので不合格となった。その際合格したのは五、六人であった。岡野は、原告陳萬述が不合格となったのを疑って、どうして他の生徒より健康なのに落ちたのかといって原告陳萬述を叱り、その後、郡の警察から原告陳萬述だけ呼び出された。郡の警察署へ行くと、巡査部長から体を動かしてみろと言われ、原告陳萬述が屈伸運動をやったところ、「甲種合格だ。行け。」と言われ、こうして原告陳萬述は意に反して志願兵となってしまった。結局「志願兵」とは名ばかりであり、実質的には徴兵であった。

そして、一九四三年二月ころ、まだ実習学校に在学中の身でありながら、召集令状を受け取った。一九四四年からは徴兵が始まったので、原告陳萬述は最後の志願兵として召集されたことになる。

当時は身体検査を拒否すると拘束された。また、召集令状を拒否しても同じであった。学校で合格した五、六名のうち、満州の方へ逃げた人もいるらしいという話も原告陳萬述は聞いていた。原告陳萬述の父は、原告陳萬述の合格を知って、絶対に行くなと言ったが、当時の日本国家の命令は絶対的であり、原告陳萬述は拒否できないと判断した。もし、原告陳萬述が拒否すれば、農作物を供出するという形で取り上げられたかも知れない。また、国家反逆者として連行の可能性もあった。原告陳萬述の妻は、原告陳萬述が召集されることを知って言葉もなく、ただ泣いているのみであった。一九三八年から志願兵制度が創設されていたが、多くの志願兵は戦死しており、軍隊に行けば死ぬということを意味していたからである。しかし、原告陳萬述は、両親も愛する妻もいるのに他に逃げるところもなく、結局日本国の言いなりになるしかなかったのである。

(3) 戦地での負傷

原告陳萬述は、一九四四年一月二五日、森第八七〇四部隊(四九師一六八連隊五中隊)に属し、同年六月一〇日、歩兵第八〇連隊に属した。そして、同年七月ころ、シンガポールに船で上陸し、その後列車でタイ、ビルマを経て、中国雲南省に至り、そこで原告陳萬述は中隊長の伝令兵を勤めていた。原告陳萬述は、同年一一月のある日、遮放で戦闘のため食糧準備中、敵機の爆撃に遭い、体中に破片を受けて気を失った。小隊六三名は原告陳萬述を除いて全員死亡した。

(4) 負傷後の状況

原告陳萬述は、右爆撃で左上膊部・右背胸部骨折投下爆弾破片創兼両側臀部盲管投下爆弾破片創の傷害を負い、応急手当の後、野戦病院に三日間入院したが、治療の道具もなく、その後、中国内部にトラックで後送されたが、治療を受けることができず、負傷者が一〇〇人集ると「ノンホイへ向かえ。」と言われ、体中に深く爆弾の破片を抱えたまま、患部が腐るのにまかせ、松葉杖をついてノンホイまで一年四か月以上歩いて、一九四六年三月一〇日到着した。

ノンホイの兵站病院で治療を受けたが、一か月後、朝鮮人台湾人特別収容所へ強制移送された。原告陳萬述は、治療を願ったが聞き入れてもらえず、治療を受けるのをあきらめ帰国の手続をした。故郷へ戻ったのは、一九四六年六月ころのことであった。

(5) 強制貯金の実態

原告陳萬述は、軍により強制的に貯金させられた。払出しは班長に使途を説明して許可をもらう必要があり、自由に引き出せなかった。残高は二八円五〇銭で、未だに払戻しがない。

強制収容所で、負傷後の一五か月間の未払いの俸給及びシンガポールでの強制貯金について、陸軍主計少尉平川定緒氏が証明書を作成した。未払俸給は、帰宅旅行手当一四万円を含め、当時の金で五〇万七五〇〇円、貯金が一〇〇円あったが、未だに支払いがない。

(6) 帰国後の状況

原告陳萬述の当時の症状は、<1>左肩胖下部に長さ七厘、幅三厘の瘢痕が残り、左肩胖関節の運動に障害が残り、<2>左上膊下端伸側に小児手拳大の物質の欠損があり、<3>左肘関節、左手の拇指小指に障害があり、左小指の関節は屈伸運動ができないというものであった。

帰国してから一九五三年までの八年間、破片を出すために手術を二回行ったが、未だに取り出せない。原告陳萬述は、現在も当時と同じ症状を抱えているし、上官に殴られて生じた中耳炎も直っていない。そのため、帰国後は全く仕事ができず、治療は自費で行っている。これまでかかった治療代は数千万円を超え、これを捻出するため、家の田畑は全て売り払った。韓国政府からの給付もなく、今は借金をして治療費を調達している。そのために家族に負担をかけている。

(7) その他父の貯金と保険金について

父陳渉伊も日本から強制的に貯金させられ、その残高は一二四四円九八銭であり、原告陳萬述は支払いを請求する。

父陳渉伊らは、左記のとおり、生命保険にも強制的に加入させられた。原告陳萬述の父母、弟は既に亡くなっており、<4>については満期が到来しているので、保険金合計九九九円についても支払いをもとめる。

<1>契約日 昭和一四年四月一九日

契約者 陳渉伊

被保険者 李且岳(原告陳萬述の母)

保険金受取人 原告陳萬述

保険金額 三三〇円

<2>契約日 昭和一四年四月一九日

契約者 陳渉伊

被保険者 陳渉伊

保険金受取人 原告陳萬述

保険金額 三四〇円

<3>契約日 昭和一八年六月八日

契約者 大原渉伊

被保険者 大原祥述(原告陳萬述の弟)

保険金受取人 大原祥述

保険金額 一七八円

<4>契約日 昭和一八年八月一六日

契約者 原告陳萬述

被保険者 原告陳萬述

保険金受取人 大原渉伊

保険金額 一五一円

(8) 原告陳萬述の請求

よって、原告陳萬述は被告に対し、強制預金、未払俸給、保険金の支払いを求めるほか、誠意ある謝罪と賠償・補償を求める。

(二) 原告丁竜鎮(一九三三年一一月二〇日生)

(1) 被害者

氏名 丁奎洙(創氏名・海島秀武)

本籍 大韓民国江原道溟州郡墨湖邑発翰三里

生年月日 一九二三年八月一日

(2) 徴兵当時の生活状況

丁奎洙は、大韓民国江原道洪川郡内面創村里において、父である丁仲燮、兄である丁元奎、甥である原告丁竜鎮らと暮らしていた。丁奎洙は、一九四三年の春、国民学校を卒業したばかりで、上級学校への進学のための準備をしていた。

(3) 徴兵の状況

原告丁竜鎮は、幼かったため記憶は薄いが、今は亡き祖父である丁仲燮から聞いた話では、丁奎洙は、一九四三年四月ころ、前記のとおり国民学校を卒業し、進学の準備をしていたところ、徴兵令状により日本陸軍として召集され、朝鮮人竜山部隊に入隊したとのことであった。丁奎洙に対する徴兵令状は、六・二五事変(朝鮮戦争)で消失した。

また、原告丁竜鎮が丁仲燮から聞いたところによると、丁奎洙より北支戦線から二度ほど手紙があったとのことだが、それも消失してしまった。丁奎洙の消息を知らせる便りは、右二度の手紙以後はなく、また、同人から丁仲燮ないし丁元奎に対し送金等はなかった。

(4) 死亡の状況

一九四五年八月一五日の終戦後、丁奎洙と一緒に召集された四人のうち一人の友人が復員して、丁奎洙の毛髪と手足の爪を紙に包んで持参の上、同人の戦死を伝えた。その友人が言うには、丁奎洙は上海にて戦死したとのことであった。その友人も今は亡き人になった。

(5) 身分関係

丁奎洙は、その父丁仲燮の五人の子の末子であり、原告丁竜鎮の父丁元奎は丁仲燮の長男にあたる。原告丁竜鎮は丁元奎の次男にあたり、丁奎洙の甥である。丁奎洙は未婚のまま戦死し、既に祖父丁仲燮、長兄丁元奎及びその長男丁栄鎮も死亡した。よって、相続権者は、父系第一順位の子である原告丁竜鎮である。

(6) 原告丁竜鎮の請求

丁奎洙は、一片の徴兵令状によって進学の夢も潰え、戦地へ送り込まれ、未婚のまま被告の戦争遂行の犠牲となったのである。

原告丁竜鎮は、家の唯一の長孫として、被告に対し、丁奎洙が、いつ、どの部隊で、どのような状況下で戦死したか調査の上報告を求める他、丁奎洙が被告の戦争遂行の犠牲となったことに対する謝罪と丁奎洙及びその遺族の蒙った損害について賠償・補償を求める。

(三) 原告韓省愚(一九三二年五月二三日生)

(1) 被害者

氏名 韓命愚(創氏名・西村命愚)

本籍 大韓民国江原道溟州郡墨湖邑発翰三里

生年月日 一九一五年一月七日生

(2) 徴兵の状況等

被告は、朝鮮総督府志願兵令が発効した後、韓命愚に対し、志願を強制し、朝鮮総督府陸軍志願者訓練所で志願兵として訓練を受けさせた。

韓命愚は、一九三九年五月末、右訓練所における訓練終了後、一時、家族の住む前記本籍地に帰郷したが、被告は、太平洋戦争勃発直後、韓命愚を召集した。当時、韓命愚は、結婚して僅か三か月後のことであり、原告韓省愚は、韓命愚の出征前夜、同人が一人で酒を飲み、嘆息していたことを今でも覚えている。

韓命愚から、一度、父である韓毅東宛てに「フィリピンに無事上陸した」旨の手紙が届いただけで、その後韓命愚の消息は絶えてしまった。

残された家族は、韓命愚の召集によって働き手を失い、また、父は高齢であったことから、母、兄弟三人で狭い畑で農業をしたが、生活は食べていくのが精一杯の貧しい暮らしであった。

(3) 死亡確認等について

被告は、終戦後から現在に至るまで、韓命愚の遺族に対し、韓命愚の戦死通知書など何ら通報をせず、同人の戦死年月日、戦死場所等は不明である。原告韓省愚は、一九七四年、江原道原州市に戦死者遺族確認と遺骨引取申請をし、一九七八年ころ、原州市を通じて韓命愚の遺骨を引き取り、父の墓所に埋葬した次第である。

(4) 身分関係

韓命愚は、父である韓毅東の三男三女のうちの次男であり、原告韓省愚はその三男である。韓命愚は、召集当時結婚して間もなかったが、出征したため子供もなく、その妻は韓国の六・二五動乱(朝鮮戦争)当時死亡した。父韓毅東、その長男も既に死亡しており、韓命愚の相続権者は原告韓省愚である。

(5) 原告韓省愚の請求

原告韓省愚は、被告に対し、韓命愚の所属部隊名、戦死年月日、戦死場所について、調査の上報告を求める他、韓命愚が被告の戦争遂行の犠牲となったことに対する謝罪と韓命愚及びその遺族の蒙った損害について賠償・補償を求める。

三 損害について

原告中の労働者として強制連行され強制労働に従事させられた被害者本人らは、劣悪な環境の下、奴隷的労働を強いられ、給料も強制貯金させられたばかりか、実際には送金されなかったにもかかわらず家族送金名下に給料から差し引かれる等し、結局、これらは未払いのまま終戦と同時に無一文の状態で放り出されたのである。軍人・軍属として強制連行された被害者本人らも、強制的に軍事郵便貯金を強いられたばかりか、俸給等の支給も滞る等し、やはり未払いのまま終戦と同時に無一文の状態で放り出されたのである。しかも、強制連行の方法となると、はるかに常識を超える行為であった。突然、場所をかまわず襲われた若者達は家族に一言の別れの言葉も残されず着のままの状態で連行された。まさにドイツ軍によるユダヤ人狩りそのものであった。若者達は、日本の戦争のために酷使され、そして死んだのである。

また、原告中の被害者の遺族らは、幼いころ父を連行され、母の手一つで育ち、東家宿西家食の状況で生活した者が大半である。その中には、遺腹子も相当を占め、一度も父の顔を見たことのない者がほとんどである。若い花盛りで夫を奪われた若い母達は夫の面影を偲びながら、同行の道をたどり自殺した者もいる。かくの如く生活の大黒柱を失った遺家族の様相は筆舌に尽くし難いものであった。

然るに、被告は、自国の戦争と侵略の野望のために犠牲となった韓国民に対して、今まで何ら一言の謝罪もしていない。「遺憾」とか「痛惜の念」との言葉は、悲惨な過去を持っている本人又は遺家族には意味が通じない。かえって立腹の念が浮かび上がるのみである。被告は、遺家族に対して、遺骨を返還すべきである。それができないのであれば、せめて死に場所でも、仮埋葬の場所でも知らせる義務を負っているはずである。人の子としてかような「恨(ハン)」は孝心の至極であり人情の常である。今被告は何を考えているのだろうか。被告は原告らの立場で考えて欲しいのである。巧言偽話では通じないのが国際的潮流の現状であることを被告自身も知っているはずである。

被告は、今でも遅くないことを覚り、一日も早く人道的良心に従って事の重大さを察し、法的裁きにより韓民族の気を晴らす方法によって、両国間の永遠の親交を来すべき義務を果たすことを強力に要請する。

四 請求額

原告らは、前記のとおりの各損害をそれぞれ被っているところ、右各損害はいずれも筆舌に尽くし難い甚大なものである。したがって、これを誠実に金銭的に換算すれば、天文学的な水準に達することは疑いのないところであるが、とりあえず本訴訟においては、右各損害の極く一部として、被告国に対し、原告一人当たり金五〇〇〇万円の支払いを求めることとする。右請求金額は、損害の実体からすれば極めてささやかな要求というべきであり、これはあくまでも一部請求であることを明示しておく。

「経済大国」を謳歌する日本国が、かかるささやかな請求すら争うというのであれば、それは「金はあるが道義はない」という自らの醜悪な姿を全世界、とりわけアジアの人々に対してさらけ出すことにほかならない。

第三国際法違反と損害賠償

一 国際法の最近の動向

国際連合(以下「国連」という。)差別防止並びに少数者保護に関する小委員会(以下「人権小委員会」という。)は、一九八九年の第四一会期において、決議一九九〇/六で、テオ・ファンボーベン氏に対し、基本的自由と人権の重大な侵害の被害者が損害賠償、補償・更正を求める権利について研究するよう特別報告者として委託し、同特別報告者は、翌一九九〇年第四二会期において初期報告書を提出し、さらに、一九九一年第四三会期において進捗状況報告書を、一九九二年第四四会期において第二次進捗状況報告書を、一九九三年第四五会期において「人権及び基本的自由の重大な侵害の被害者の原状回復、補償及びリハビリテーションの権利に関する研究」と題する最終報告書をそれぞれ人権小委員会に提出した。

右最終報告書によれば、人権と基本的な自由の重大な侵害の被害者が賠償等を求める権利に関する明文化された「現存の国際的規範」としては、<1>「効果的な救済措置」に関し、世界人権宣言八条、市民的及び政治的権利に関する国際規約(以下「B規約」という。)二条3(a)等が、<2>「補償を受ける権利」に関し人権に関する米州条約(以下「米州人権条約」という。)一〇条、アフリカ憲章二一条二等が、<3>「賠償を受ける強制可能な権利」に関しB規約九条5、ヨーロッパ人権条約九条五等が、<4>「公正かつ十分な補償を受ける実施可能な権利」に関し拷問禁止条約等が、<5>「法または国内法によって補償するべきことを規定する義務」に関しB規約一四条等が、<6>補償、賠償に関連する規定に関し人種差別撤廃条約、米州条約、子供の権利条約等が、<7>犯罪防止をなすべき義務に関し司法の基本原則宣言、少年司法北京ルールズ等が、<8>交戦当事者の賠償義務に関しハーグ陸戦条約三条、ジュネーブ四条約、ジュネーブ捕虜条約、ジュネーブ文民保護条約、ジュネーブ諸条約追加第一選択議定書等が存在すると報告されている。そして、これらの国際的規範から、次のような基本的原則が導かれるとしている。

一般原則

<1> 国際法の下において、人権と基本的自由の重大な侵害(集団虐殺、奴隷制、奴隷類似行為、恣意的処罰、拷問、非人道的な取扱い、強制移動、組織的差別など)は被害者の損害賠償に対する権利を発生される。

<2> 人権と基本的自由の尊重を保障する国際法上の義務(違反行為防止義務、違反行為調査義務、違反行為者に適切な措置を取る義務、被害者救済義務)に違反した国家は損害賠償義務を負う。

<3> 損害賠償は、侵害の諸結果を可能な限り除去し、違反行為を防止・阻止することにより、被害を回復し被害者に正義を与えることを目的とする。

<4> 損害賠償(補償、更生、陳謝、再発防止保障を含む)は、被害者の必要と要望に応じ、被害と比例するものでなければならない。

<5> 国際法上犯罪となるような人権侵害に対する賠償には、加害者を訴追し処罰する義務を含む。

<6> 請求権者は、直接の被害者及び適切と思われる場合にはその肉親、扶養家族、特別の関係のある者である。

<7> 国家は、個人に対する補償以外に、被害者の集団の集団的請求・集団的補償についての適切な法律を制定しなければならない。

損害賠償の形態

<8> 人権侵害以前の状態を回復するための原状回復は、特に自由、市民権又は在留権、職業、財産の回復を要求する。

<9> 補償の対象は、人権侵害によってもたらされた肉体的・精神的被害、感情的苦悩、教育機会喪失、収入及び収入能力喪失医療等更生費、財産被害、名誉尊厳の被害、救済を得るための専門的援助の費用等である。

<10> リハビリテーションは、法律、医療、心理学等でのケアーやサービスを含む。

<11> 陳謝と再発防止保証は、継続的違反行為の停止、真相公開、宣言的判決、事実認定と謝罪、責任者の処罰、被害者の名誉回復、教育、文民統制、軍事法廷管轄権制限、司法の独立強化、法律家・人権活動家の保護、人権訓練等を含む。

手続と機構

<12> すべての国家は迅速で効果的な懲戒手段、行政上・民事上・刑事上の手続の整備をしなければならない。

<13> 損害賠償請求権の容易に行使できる手続の整備をしなければならない。

<14> 手続の広報をしなければならない。

<15> 有効な救済がなされなかった期間は時効は適用されない。重大な人権侵害への賠償の請求については時効は適用すべきではない。

<16> 補償の権利の放棄の強制は許されない。

<17> 国家が所持する全ての証拠を容易に利用させなければならない。

<18> 裁判所は、記録又は有形の証拠が制限され又は利用不可能であることを考慮しなければならない。他の証拠がない場合は、補償は、被害者、家族、医療及び精神衛生の専門家の証言に基づかなければならない。

<19> 被害者、証人等を脅迫、報復から保護しなければならない。

<20> 損害賠償に関する決定は誠実で迅速に執行され、追跡調査、異議申立て、再調査の手続が準備されなければならない。

以上によれば、今や、人権の侵害に対しては、損害賠償をなすことが国際法の下では当然のこととされているといってよい。本件での原告らの主張は、右最終報告書によって指摘された国際法理論の認識を基にする。

二 国際法違反に基づく損害賠償

1 国際法の原則

確立した国際法の原則によれば、<1>国家の行為や怠慢からなる行動は国際法の下に国家に責任を帰される、<2>国家の行動が国際的な義務違反となるとき、国家による国際的に不法な行為があるとされる。この国家による不法な行為は、国際的な義務の侵害が結果として危害をもたらす場合には適切な損害賠償の義務を生じさせるとされる。ここでいう国際的義務とは、国家が締結・批准した国際条約・規約を意味することはもちろん、確立された国際慣習法の遵守も国際的な義務とされる。この国際条約・規約及び国際慣習法には国際人権法、人道法等が含まれる。すなわち、人権の侵害、人道に対する罪は国際法の違反として損害賠償をなすべきことが国家に当然に義務付けられているのである。

2 国連による国際法の原則の確認

(一) 国際法の侵害に対して損害賠償の義務を生じることについては確立された国際法の原則とされているが、国連結成後、この原則については現在まで幾多の確認がなされている。以下その事例を挙げる。

(二) 国連事務総長による戦争犯罪と人道に対する罪に関しての研究では、戦争犯罪及び人道に対する罪で有罪とされる人々の発見・逮捕・引渡・処罰に関する国際協力の原則を提起する(これは国連総会決議となっている。)と同時に、戦争犯罪と人道に対する罪の犠牲者への損害賠償を決める基準を扱っている。そこでは、損害賠償が支払われる五つのカテゴリーが示されている。<1>死亡、<2>身体への危害や健康の損傷、<3>拘禁と国外追放、<4>雇用若しくは職業への危害、<5>財産への損害がそれである。

(三) 国連経済社会理事会は、一九五一年三月一九日決議三五三によって、権限あるドイツ当局者にナチス政権下に収容所でいわゆる科学実験にさらされた人々が被った損害に対してできる限り充分な損害賠償を与えるよう要請した。これは、人道に対する罪による損害賠償の必要性を確認したものと考えられる。なお、ドイツ連邦共和国は、この要請を受け入れ、この問題で責任をとるべきことを決定した。

(四) 国連総会は、「戦後問題」の名の下での一連の決議で、戦争(第二次世界大戦)中に地雷を埋設された発展途上国が、それによって引き起こされた損失について、地雷を埋設した国に損害賠償を求めることを支持した。

(五) 国連安全保障理事会(以下「安保理」という。)は、一九九一年決議六八七によって、イラクは「クウェートの不法な侵攻、占領による環境破壊、天然資源の枯渇を含む直接的な損失、損害或いは外国の政府、国民、会社への損害に国際法の下責任がある」と再確認した。ここでは主として国家間賠償の問題と考えられていたが、同時期に国連人権委員会は、同年決議六七により特別報告者を任命し、同年決議七四によりイラクの人権の大量侵害の結果引き起こされた損害・損失・毀損について報告を求めた。この報告では、前記国際法の原則が確立したものとして指摘され、大量の人権侵害に対して国家の国際法の下の義務違反として損害賠償をなすべきことが述べられている。法的には国際人権法並びに一九四九年諸ジュネーブ条約による国際人道法が根拠とされる。さらに、前述の安保理決議六八七により設立された国連損害賠償委員会は、損害賠償の請求の基準を作成したが、その中ではイラクの不法な侵攻、占領の結果としての死亡、負傷、その他の請求を可能とし、なかでも「重大な身体の損傷」には性的な暴行、拷問等を含むとされ、性的な暴行を受けた個人は請求ができるとした。この請求は、国家によって請求してもらうのではなく、個人として請求し得るとされたところに意義があるといわれる。

3 国際人権条約・規約の侵害による損害賠償

(一) 第二次大戦後成立した主要な人権条約・規約では、これに定める人権の侵害について損害賠償をなすこととされている。これは前述の国際法の原則として国際的義務に違反した場合に損害賠償をなす義務が国家にあることを確認し、かつ、その手続を容易にするために成立したものといえる。ここでは、B規約、ヨーロッパ人権条約及び米州人権条約について述べる。

(二) B規約とこれに基づく人権委員会(以下「規約人権委員会」という。)の人権規約違反についての損害賠償の規定

B規約は、二条三項において、規約の締約国は、規約に認められた権利や自由が侵害された者が、公的資格で行動する者によりその侵害が行われた場合にも、効果的な救済を受けることを確保すべしとされている。これに基づき、規約人権委員会は、選択議定書により申し立てられた事案に対する審査の結果の見解で損害賠償のための適切な措置をとることを締約国に求める。規約人権委員会が扱った問題で、規約の侵害の犠牲者への損害賠償を与えることとされたのは、規約六条(生命に対する権利)、七条(拷問又は残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い若しくは刑罰を受けない権利)、九条(身体の自由及び安全に対する権利)、一〇条(拘禁中、人道的取扱いを受ける権利)、一四条(公正な裁判を受ける権利)等の侵害についてである。損害賠償の内容については、その範囲を規約の規定により拡大している。

(三) ヨーロッパ人権条約と人権裁判所

ヨーロッパ人権条約五〇条において、締約国の法的機関がとった決定・措置がこの条約から生ずる義務に抵触すると同条約によって設置されたヨーロッパ人権裁判所で認定された場合、この侵害について締約国が部分的賠償しか認めていない場合に人権裁判所が被害当事者に正当な賠償を与えるとされている。この条約の右条項は、締約国の条約違反は特定条項に限られないこと、侵害に対して損害賠償がなされることを当然の前提として、かつ、国内法によってこの条約の侵害への賠償が完全になされない場合のものである。すなわち、損害賠償の請求の根拠はこの規定によって創設されたものではないといえる。

(四) 米州人権条約と米州人権裁判所

米州人権条約は六三条一項で、この条約が保護する権利又は自由の侵害が存在すると認定されるときは、侵害を構成する措置又は状況の結果が救済され、及び被害当事者に公正な補償が支払われるよう判決する、と定めている。ここで述べるべきは、この損害賠償の根拠は、同条約一条の「……これらの権利及び自由の自由且つ完全な行使を確保することを約束する。」との規定によっているとされることである。すなわち、「自由と権利の自由且つ完全な行使」には、この条約に定められている基本的自由と人権への侵害は当然回復のための損害賠償を伴うものであることを前提にしたものなのである。同裁判所は、国際法の原則として、結果として危害をもたらす国際的な義務の侵害は、適切な損害賠償の義務を生じさせるとしている。

4 国際法の原則と実定法

(一) 前項で述べた条約・規約以外にも、国際条約又は国際文書の中で人権侵害の犠牲者の損害賠償の権利を定めるものがある。その一つは、「拷問及びその他の残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い又は刑罰を禁止する条約」(以下「拷問禁止条約」という。)の一四条である。同条一項において、各締約国は、拷問行為の被害者が……公正かつ充分な補償を受ける実施可能な権利を持つことを自国の法制度において確保する、拷問行為の結果被害者が死亡した場合には、その被扶養者は補償を受ける権利を有する、と定めている。同条二項において「本条のいかなる規定も、被害者又はその他の者が国内法に基づいて有する補償に対するいかなる権利にも影響を及ぼすものではない。」としていることは、損害賠償の権利について国内法によるものと、この条約によるものとが存在することを明言しているといえる。また、一九九二年二月二八日人権委員会が採択した「強制的失踪からすべての人を守る宣言草案」は、五条において、「適用可能な刑事罰に加え、強制的な失踪は国際法の原則に従って当該国の国際的な責任を損なわせることなく、こうした失踪を組織、黙認あるいは許容した行為者と国又は国当局者に民事上の責任を与える」とし、さらに、一九条では、「強制的な失踪の犠牲者とその家族は補償をうけるべきであり、可能な限り完全な更正の手段を含む適切な損害賠償を求める権利をもつべきである」と述べている。

(二) このように、条約又は宣言において損害賠償を求める権利を定めるのは、いわば国際法における実定法といえる。このように、明文で人権侵害被害者への損害賠償の権利を認めているものについては、国家が損害を賠償すべき義務があることは明らかである。

それでは条約・規約に明文の規定がない場合はどうか。前述した国連の幾多の決議や研究は賠償の明文規定のないものであり、イラクのクウェート侵攻についてもそうである。また、B規約、ヨーロッパ人権条約、米州人権条約の規定も、権利の創設的規定ではなく、原則としての条約違反への損害賠償の権利を確認し、それ故に定められたものといえる。現実の損害賠償の範囲も明文規定にないものまで含んでいるのはそのためである。よって、国際人権法や人道法の義務に違反する国家は損害賠償の義務を負うということは、実定法の規定の有無にかかわらず認められるものである。「人権条約・規範は権利を生み出さず、ただ単にそれらを認めるだけである。」ということが認識されるべきである。

5 マーストリヒト会議の結論

(一) 一九九二年三月一一日から一四日にかけて、オランダ・マーストリヒトにおいて、「基本的な自由と人権の重大な侵害を受けた被害者が損害賠償、補償と更生を求める権利についての会議」が開かれた。この会議での結論文書が出されている。以下それを引用する。

(二) 右結論の第六パラグラフは、「原則として、全ての国は人権侵害に補償し、かつ被害者が損害賠償を求める権利を行使できるようにする責任がある。国は誠実に、人権の国際的、地域的、国内的な規範を適用しなければならない。……」と述べている。

(三) 第一〇パラグラフでは、侵害の類型として「人権のいかなる侵害も、その犠牲者に損害賠償を求める権利を生み出すが、現在の目的の下では、基本的自由と人権の重大な侵害の概念には、少なくとも以下の行為―集団虐殺、奴隷制及び奴隷制類似行為、即決あるいは恣意的な処刑、拷問、行方不明、恣意的且つ長期的な拘禁、組織的差別が含まれると理解する。」と述べられている。

(四) 損害賠償の形態として、第一六パラグラフでは、「補償(コンペンセーション)は、現金あるいは物品で提供される損害賠償の一形態である。……」とし、第一七パラグラフでは、「非金銭的な損害賠償は、被害者の道義的及び社会的安寧、正義平和の大義につくす、これには以下の重要な項目が含まれる。

a 事実の検証と真実の完全且つ公開の告知

b 犯した侵害の責任を公開すること

c 責任者を裁判にかける

d 犠牲者、その親族、友人さらに目撃者の保護

e 記念式典の挙行と犠牲者への敬意を払う

f 犠牲者のアフターケアと犠牲者を援助する人員訓練のための施設の設立と後援

g 「侵害再発の防止」として損害賠償の内容を挙げる

(五) 手続と機構として、第二一パラグラフは、「各国は、人権の重大な侵害の犠牲者に対し、侵害の責任者が裁判に付され、被害者が損害賠償をうけとれるように留意する責任を負っている。それゆえ、各国の法制度はこうした問題を公平で効果的な方法で扱うべきである。」と述べている。

(六) 以上、この会議の結論は、本件請求の目的に完全に合致するものといえ、この問題が国際法における自由と人権の侵害を受けた被害者に対する損害賠償の問題の現代的到達点であるといえる。裁判所もこの国際法の動向を慎重に吟味しなければならないものと考える。

三 明治憲法下における国際法の国内的効力

1 明治憲法一三条は、「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」として、条約の締結は天皇の外交大権に属するとされる。それ故に、帝国議会の協賛を要せず、天皇の専断によって締結される。また、天皇の裁可は締結と同時に批准の意も有する。条約は上諭を付して公布され、国内法的効力を有する。条約を国内に実行し国民各個をして条約の定めるように行動せしめるには別に国内法を制定しなければならぬ、という見解もあったようであるが、天皇大権によって締結された条約が、国内法の制定(帝国議会の協賛を得る必要がある。)が議会の協賛を得られずに成立しない場合には、条約の義務の履行ができない結果になって、天皇大権を侵害する結果となる。そのため、実際の取扱いは、条約を条約として公布すれば、その内容が法律をもってしなければ臣民の権利義務を生ずることを得ざる事項に関する場合でも、一切かまわず、直ちに国内法たる効力あるものとしてきたのである。よって、明治憲法下においても、公布された条約は国内法的効力を有するものとして認められてきた。

2 国際慣習法についても、条約の右取扱いと同様と考えなければならない。確立された国際慣習法は、国際秩序の尊重を旨として慣習法たる効力を有するのであるから、当然大日本帝国も国際秩序に従う義務を負っているのである。

3 ポツダム宣言の受諾は、それまでの国際法上の秩序を受け入れることを宣言したといえるものであるから、右受諾は条約における国家の義務及びそれまでに確立されていた国際慣習法の秩序を全て受け入れることを意味する。なかでも「言論・宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべし」とされていることを想起すべきである。

四 本件請求の根拠たる国際法

1 請求の根拠となる国際法

本件は、一九四〇年ころから一九四五年にかけて、本件各被害者が被告の関与により軍人・軍属・労働者として強制連行され、奴隷状態に置かれた上、軍役・労役を強いられたことが、<1>奴隷の状態又は隷属状態におかれない自由への侵害であり、<2>人道に対する罪に違反し、<3>「強制労働ニ関スル条約」(ILO第二九号条約、以下「強制労働条約」という。)に違反するというものである。奴隷の状態又は隷属状態におかれない自由は、一九二六年成立の奴隷条約を日本が批准していないので、国際慣習法による権利として主張する。人道に対する罪も国際慣習法として主張する。強制労働条約は、一九三二年大日本帝国によって批准されている。

ところで、この三つの請求の根拠は、それぞれ関連づけられるものである。強制労働は奴隷又は隷属状態に限りなく近い状態を含み、強制労働の深刻化した場合には奴隷状態といい得る関係にある。また、人道に対する罪は、その一つとして奴隷化したことを罪の内容の一つとしている。よって、相互に関連し合い、本件原告ら又はその親族らの前記状態は、奴隷とされない自由と権利の侵害となる。

2 奴隷の状態又は隷属状態におかれない自由の権利の侵害

(一) 奴隷制に対する禁止の歴史

既に一九世紀において、一八一四・一五年パリ平和条約、一八四一年ロンドン条約、一八六二年ワシントン条約などの奴隷制に関する条約が存在した。かように奴隷制度は人類の歴史の古くから存在したが、それに対する国際機関の取組みも、他の人権問題と比較すると早くから始まったといえる。国際法の中でも最も早くからユス・コーゲンスとみられてきた事象である。

そして、国際連盟は、植民地・委任統治制度下における奴隷制の問題を重要視し、連盟規約は、「委任統治地域における原住民ないし土民の保護のうちに奴隷取引の如き乱用を禁止する」規定(二二条)を定め、また、「加盟国は自国及び商工業上の関係が及ぶあらゆる領域において、公正かつ人間的な労働条件の確保並びに維持に努力すべき」旨が定められた(二三条)。

その後、国際連盟は一九二二年奴隷制に関する一切の問題を調査するために奴隷臨時委員会を設置し、同委員会は第一次報告書において奴隷制度に関する問題は包括的観点から取り扱われるべきであり、奴隷制に類似する一切の苦役を抑制する措置を講ずるべきことの必要性を強調した。この委員会の研究は、一九二六年採択・一九二七年発効の奴隷条約として結実した。

第二次大戦後も国連は一九五六年採択・一九五七年発効の「奴隷制度、奴隷取引並びに奴隷制類似の制度及び慣行の廃止に関する補足条約」(以下「奴隷制廃止補足条約」という。)を生んだ。

これらの条約は、残念ながら日本は締結・批准していない。しかし、奴隷制の禁止が確立した国際慣習法であることは、本件一九四〇年ころないし一九四五年当時においても全く争いはない。

(二) 奴隷条約は、その一条において、「奴隷制度とは、その者に対して所有権に基づく一部又は全部の権能が行使される個人の地位又は状態をいう。」と定義し、奴隷制度と奴隷取引の禁止の観点から規制するが、個人の立場からみれば、奴隷の状態又は隷属状態に置かれないことを意味する。一九四八年の世界人権宣言は、四条において、「何人も、奴隷の状態又は隷属状態に置かれない。」と宣言したが、これはそれまでに確立されていた国際法の慣習を宣言したものといえる。

また、奴隷条約は、五条において、「締約国は、強制労働の利用が重大な結果をもたらすことがあることを認め……強制労働が奴隷制度に類似する状態に発展することを防止するためにすべての必要な措置をとることを約束する。」としているように、当時においても強制労働と奴隷状態あるいは奴隷類似の状態が極めて密接なものであることが認識されていた。

3 人道に対する罪の侵害

(一) 人道法の形成

人道法とは、武装紛争での行動と武装紛争の犠牲者の保護の原則を決定しているものである。その淵源は、一八六四年のジュネーブ条約(第一次赤十字条約)に始まり、その後戦争手段の進化、戦争規模の拡大、国際関係の複雑化に従い、より近代的な法体系として形成されてきた。一九〇六年のジュネーブ条約(第二次赤十字条約)、一九二九年のジュネーブ条約(第三次赤十字条約)と発展し、第二次世界大戦における大量の一般市民をも巻込んだ戦闘の経験から、文民の保護を含んだ一九四九年諸ジュネーブ条約が締結された。これらのジュネーブ条約とともに一九〇七年にはハーグにおいて「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(以下「ハーグ条約」という。)が締結され、条約付属書として「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」を確立した。これらの条約とその他の国際慣習法を総合して国際人道法と称される。なお、日本は、ハーグ条約を一九一二年に批准しているが、一九四九年以前のジュネーブ条約は批准していない。

(二) 人道に対する罪の形成

国際人道法は、戦争行為において、当時国が人道法として成立したこれらの武装紛争行為を規制する規則に違反した場合には、これを処罰すべしとのいわば国際刑事法の概念に発展した。第一次世界大戦終結の平和条約いわゆるベルサイユ条約では、皇帝と戦争犯罪人に個人責任を問うたことで、人道に対する罪の概念が発展した。すなわち、国際人道法に違反した個人の責任を刑事処罰として問う、とした概念が人道に対する罪である。

(三) ニュルンベルグ憲章

第二次世界大戦の終結時、この戦争における戦争犯罪に対応して、国際軍事法廷憲章が特別な国際法廷を設立した。一九四五年六月二六日に開かれたロンドン会議に、米英ソのほかナチス・ドイツに占領されたフランス臨時政府のそれぞれの代表団が参加し、同年八月八日、「ヨーロッパ枢軸諸国の主要戦争犯罪人に対する訴追と処罰に関する協定」(ロンドン協定)が締結された。

ロンドン協定にはその後一九か国が順次参加し、裁判を迫るための国際軍事裁判所規約が作られた。その規約では、<1>侵略戦争、国際条約、規約違反などの計画・準備・開始・遂行などの共同謀議をした平和に対する罪、<2>占領地住民の殺害・虐待・奴隷労働・捕虜労働・捕虜殺害・虐待などの戦争法規や慣習違反の戦争犯罪に対する罪、<3>戦前若しくは戦時中にすべての民間人に対して行われた殺人、殲滅・奴隷化・追放及びその他の非人道的行為、又は犯行地の国内法に抵触すると否とにかかわらず、本裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として若しくはこれに関連して行われた政治的、人種的若しくは宗教的理由に基づく迫害行為など人道に対する罪の三点を裁くことが明記された。

この規則に定められた基準の中、<3>が人道に対する罪とされるものであるが、それは人道法の普遍的な諸基準を侵害した行為であるがために処罰の対象とされたのである。

(四) 人道に対する罪と損害賠償

ハーグ条約三条は、「陸戦の法規慣例に関する諸規則の条項に違反したる交戦当事者は損害あるときは之が賠償の責を負うべきものとす」としている。人道法への違反の賠償責任を実体化したものであるが、前述の人権侵害には損害賠償の責任を伴うものであるとの原則は人道法のおいても妥当するものであり、右条項はこれらの原則を実定したものといえる。

ところで、人道に対する罪は、前述のとおり人道法の普遍的な諸基準を侵害した行為を内容とするものであり、人道法への違反の中でも極めて厳格なカテゴリーであるといえる。それ故、この人道に対する罪の要件に該当する行為は、人道法への違反としての損害賠償の対象として当然にも補償を伴うものとなってくるのである。人道法の普遍的な諸基準の違反は、処罰と同時に損害賠償もなされなければならない。

ちなみに、一九七〇年、西ドイツの連邦最高裁判所は、強制連行、強制労働によって健康を損なった被害者の補償請求を認めた判決のなかで、強制連行はナショナリティー(民族ないし国民性)を理由とする迫害であって、人道に対する罪に該当すると述べている。

このように、人道に対する罪は、補償を求める裁判においても適用されているのである。したがって、被告の原告ら又はその親族らに対する行為は、人道に対する罪に違反するものである。

4 強制労働に関する条約違反

(一) ILOは、既に一九二二年当時植民地及び委任統治地域における労働問題に関心を寄せ、一九二六年国際連盟が強制労働問題に関してILOの注意を喚起する決議を採択する直前に、ILO内部に「土民」労働に関する専門委員会が設けられ、活動を開始した。

右委員会の活動対象には、強制的及び長期契約の労働に関する問題が含まれており、その活動を基礎として一九二九年にはILO事務当局の報告書が第一二回総会に提出された。

この報告書は、多くの従属国では道路・鉄道・ダム等々の公共事業において、強制労働による労働力調達が慣行化していること、一定の地域的目的のための強制労働については比較的弊害が少ないが、一般的公共的目的のために原住民を遠隔地に移動させて強制労働させる場合に最も弊害が多いことを指摘している。

(二) そして、一九三〇年六月二八日ILO第一四回総会において、強制労働条約及び勧告第三五号、同第三六号が採択されるに至った。日本は、右条約を一九三二年一一月二一日批准した。なお、現在一二五の国がこの条約を批准している。その目的は、植民地・委任統治地域において慣行化されている強制労働が住民に対する教育的効果よりも非道徳的性格が大であるとして、それの直接的若しくは漸次的廃止のための措置を講ずることにあった。

(三) 強制労働条約において、「強制労働」とは、「或者ガ処罰ノ脅威ノ下ニ強要セラレ且右ノ者ガ自ラ任意ニ申出デタルニ非ザル一切ノ労務を謂フ」(二条一項)とされており、本件原告又はその親族らが強いられた労役は、正に強制労働に該当するものである。

ところで、同条約二条二項dは、戦争・災害又は災害の虞ある場合などの緊急事態並びに住民の全部又は一部の生存若しくは福祉を危険ならしめるごとき事態において採られる「強制される労務」を、同条約にいう「強制労働」から除外している。しかし、これは人命や福祉のためなどに緊急性の非常に高い場合に、やむを得ず強制労働に従事させることを例外的に認めているにすぎず、強制連行一般がこの条項に該当しないことは明白である。

また、強制労働条約は、刑罰、徴兵などのほか、例外的に壮年男性の強制労働を許してはいるが、これには厳しい条件を付している。すなわち、炭鉱など鉱山の強制労働や、一年に六〇日以上(労働現場への旅行期間を含む)にわたる強制労働は禁止される。私企業に強制労働を許すことも禁止される。強制労働が例外的に許される場合には、内地人との賃金格差はあってはならず、しかも賃金を現金で支払う義務がある。

(四) 日本国及び日本企業が行った強制連行・強制労働は、これら全ての点で、強制労働条約に違反していた。

強制労働期間は六〇日で終わることはなかった。六〇パーセント以上の朝鮮人被強制連行者が、炭鉱など鉱山で地下強制労働をさせられた。当時、鉱山の坑内労働者の八〇ないし九〇パーセントは朝鮮人であった。

賃金は日本人より格段に安く、しかも、この賃金のほとんどを強制貯金させられたため、現実に賃金の支給はされなかったり、支給されたとしてもわずかなものであった。なお、強制貯金について付言すれば、一九四五年八月に解放された朝鮮人被強制連行者たちの要求にもかかわらず、強制貯金は被強制連行者に対し、ほとんどが払い戻されていない。

また、日本国は、これらの強制労働の直接的利用を、ほとんど私企業に委ねていたが、これは同条約四条に明白に違反する。

(五) 強制労働条約上、日本政府は同条約の違反者に対しては、刑罰をもって対処しなければならない旨の義務を負うことが明文で規定されている(二五条)。

しかし、日本政府が刑罰をもって強制労働を規制したことは一度としてない。むしろ、条約違反者を取り締まるべき警察などの当局自体が、朝鮮人の強制連行を実施し、私企業の「たこ部屋」からの逃亡防止措置まで行い、さらに、逃亡した被強制連行者を捕まえて拷問を加える等、積極的に強制労働の実施に加担していたのである。

第四戦後補償の国際的潮流

一 戦争によって植民地人民や少数民族に被害を与えたのは日本だけにとどまらない。日本との同盟の下に戦争を遂行したナチスドイツは、多数のユダヤ人等の少数民族を強制収容所に収容し、虐殺した。民主主義を標榜したアメリカ合衆国やカナダも、太平洋側に住む日系人を、その国籍の如何を問わず敵性民族とみなし、強制収容所に収容した。しかし、これらの諸国については、その犠牲者に対して、各国政府が大戦中の行為の過ちを認めて謝罪し、「内外国人平等主義」を当然の前提として、補償に関する立法措置を講じている。

二 ドイツ

第二次世界大戦中の日本との同盟国であり、同じ敗戦国であるドイツでは、敗戦後間もなく戦後措置が開始され、約一〇年前に一応の体系整備が調った。殊に、ナチス指導下のドイツにおけるユダヤ人を含む人種的迫害、政治的迫害に対する補償立法の整備もなされている。

1 第二次世界大戦中の人的損害に対する措置として、旧西ドイツにおいて、戦争犠牲者援護法(一九五〇年)が制定されている。同法により、軍事上若しくはこれに準ずる任務それらに伴う事故及びそれと特有な関係による健康障害を受けた者に対して、治療、看護、戦争犠牲者への扶助、障害者への年金支給、死亡の場合の理葬手当、遺族への年金支給の措置がとられている。同法は、旧西ドイツ国内に居住する外国人にも適用があるほか、連邦各州政府が同法八条に基づく裁量行為として、連邦労働大臣の同意を得て外国に居住する外国人に対しても援護を与えている。

2 物的損害に対しては、負担調整法(一九五二年)及び賠償補償法が制定されている。負担調整法では、国民の間で特定の部分が受けた戦争被害を、被害を受けなかった国民にも等しく負担配分すべきであるとの基本理念の下に、戦闘による破壊、旧ドイツ領からの追放、引揚げ等によって財産を失った者に対し、連邦予算から対物補償を行っている。その支出総額は、一九八七年末で一一六五億マルクにも上っている。また、賠償補償法では、国民の外国による私的被害に対する補償がなされている。

3 特に、右1、2の措置に対する特別法として、ナチス迫害の犠牲者の物的・人的損害に対する補償措置として、連邦補償法(一九五六年)、連邦返済法、対イスラエル条約等がある。

連邦補償法(BEG)は、「ナチズムに対する政治的敵対関係を理由に、または人種、信仰、または世界観を理由にナチスの暴力装置によって迫害され、それにより生命、身体、健康、自由、所有物、財産、職業上の、経済上の出世に損害を被った者」(同法一条)に対し、年金や一時金の形で補償給付を行っている。この法律によって給付された額は、一九九一年一月現在で約六七九億マルク、現在の年金受給者は約一五万三〇〇〇人、補償月額は約一〇〇億円に及んでいる。

連邦返済法(BRuG)では、ナチスの迫害によるユダヤ人の物的被害(その四分の三が不動産の収奪による被害)を受けた個人に対して、収奪によって利益を受けた個人から財産を返済させるための措置がとられ、その支給総額は一九九一年一月現在で約三九億マルクに上っている。

BEG及びBRuGによる給付は、約二〇ないし二五パーセントを国内に、約四〇パーセントをイスラエルに、残りをその他の諸外国にあてている。また、特に、BEGによる年金の支給は、約一七パーセントが国内に、約八三パーセントが国外に向けられている。

連邦補償法の適用からもれたナチス被害者に対する補償として一九五二年にユダヤ人賠償法条約が調印され、この条約により、旧西ドイツ政府は、イスラエル政府に対して三四億マルクを、対ドイツ物質要求ユダヤ人会議(JCC)に対して五億マルクの支払いがなされた。

4 外国人戦争被害者への補償方法としては、ポーランド、オランダ、ベルギー、オーストリア等の政府との間では、政府と旧西ドイツ政府が支払いのための協定を締結し、ドイツ政府が該当者の年金請求権の総額を一括払いし、外国政府が国内的措置によって被害外国人個人に対して支給をしている。

デンマーク、チェコスロバキア、ノルウェー、イスラエル等の国との間では、賠償に関する条約で外国人被害者に対する補償問題も一括処理されている。

フランスに対しては、連邦補償法からもれた被害者に対する政府との間の包括処理と適用被害者に対する個別支払いとが併用されている。

5 BEG、BRuGその他の給付により、今後二〇三〇年までに、総額約三三三億六三〇〇万マルクの給付が予定されている。

6 一九八五年にワイツゼッカー大統領が連邦議会でなした「過去に目を閉ざす者は結局、現在にも目を閉ざすことになる」という演説は、あまりにも有名であるが、戦後補償をめぐる最近のドイツの動向にも注目すべき点がある。

BEGの補償からもれてきた者に、「遺伝病的子孫忌避のための法律」(一九三三年)によって強制断種させられた身体、精神障害者がいるが、これらの人々に対しては、一九八八年五月五日にドイツ連邦議会により決議がなされ、右法律の不正の確認と無効宣言がなされ、右決議に基づいて、最近補償基金が設立されるに至った。

ドイツ占領地からの強制連行労働者に関しては、これまでドイツ政府による補償はされていなかった。しかし、最近この補償をめぐる交渉が始まり、一九九二年三月にドイツ政府とポーランドとの間に「和解基金」が設立され、ドイツ政府は五億マルク(約四〇〇億円)を基金に拠出した。チェコスロバキア政府との間にも同様の交渉がなされている。

残された旧東ドイツ地域でおきた被害に対する補償、東欧諸国との補償問題等については、ドイツ連邦議会内に補償小委員会が設置されている。

三 アメリカ合衆国

一方、第二次世界大戦の戦勝国であるアメリカ合衆国では、大戦中の日系アメリカ人強制移住に対して、一九八八年に市民的自由法が制定され、補償措置がとられた。

1 日本によるパールハーバー攻撃後の一九四二年二月一九日、陸軍長官及び軍管区司令官に対し、「軍事上必要な場合には、軍事地域を設定する権限とその設定地域からすべての人々を立ち退かせる権限」を付与する大統領行政令第九〇六六号が発布され、実際上日系人にのみ適用された。同令による自発的移住の試みを経て、同年三月から日系人の強制集団移住(主として西海岸から)が開始され、日系人は集結センターに集められた後、内陸部にある再定住センター(強制収容所)に送られた。この強制移住及び強制収容に伴い、日系人は、財産上、精神上、あるいは自由に関する多大な損害を被った。

2 日系人強制移住に関しては、日系人の権利回復・補償要求運動が行われてきたが、一九八〇年七月三一日、アメリカ議会内に「戦時民間人再定住・抑留に関する委員会」が設置された。

同委員会は、同年七月から一二月にかけて、西海岸を中心に二〇日間にわたる公聴会の開催、七五〇人以上の人達からの証言聴取、当時の公文書の調査を行い、その結果を一九八三年二月二四日付け報告書「拒否された個人の正義」にまとめた。同報告書は、日系人強制収容に関する事実関係や被害実態を詳細に報告したうえで、それをふまえて、概要次の五項目の救済勧告をした。その五項目とは、<1>強制移住の不法行為性を確認し国家が謝罪する旨をうたった上下両院合同決議を可決し、大統領がこれに署名すること、<2>人種的理由に基づく外出禁止令や退去命令等に違反したことを理由とする有罪判決の見直し等、<3>議会から行政機関に対して、日系人の権利回復申請について指示すること等、<4>議会は予算を支出して特別財団を設立し、基金を、このできごとを記憶にとどめ、この種の事件が起きた原因及び背景を究明、理解するための研究、学校教育活動を後援すること、<5>議会が決める適切な期間に、一五億ドルを基金に支出し、この基金を、まず大統領行政令第九〇六六号に従って居住地から強制排除され、現在なお生存する日系人約六万人に対する一人当たり二万ドルの補償支払いに当て、残りを福祉や国民教育に当てることである。

3 右勧告に基づき、アメリカ議会は、一九八八年八月一〇日「市民的自由法」を制定した。同法は、強制収容が「人種的偏見、戦時ヒステリー及び政治的リーダーシップの失敗」によるものであると言及したうえで、謝罪条項を明記し、議会が国を代表して日系人に対して謝罪し、かつ、「市民的自由公共教育基金」の設立を定めた。

右基金により、収容当時、日系のアメリカ市民又は永久外国人であった人で、かつ、補償法成立当時生存していた人であれば、現在の国籍を問わず、一人当たり二万ドルの補償金が支払われることとなった。

一九八九年には、アメリカ政府が、問い合わせや申請受付のため、係官を日本に派遣し、一九九〇年三月から実際に高齢者から右補償が開始された。

一九九〇年一〇月にブッシュ大統領から日系人にあてられた謝罪状には、「損害補償と心からの謝罪を申し出る法律の制定で、米国人は言葉の真の意味で、自由と平等、正義という理想に対する伝統的な責任を新たにしました。」とある。

四 カナダ

アメリカ合衆国同様連合国側であったカナダでも、第二次大戦中、日系カナダ人に対する強制移住・強制収容が行われ、これに対し、同じく一九八八年に補償措置が図られた。

1 一九四一年一二月八日、パールハーバー攻撃の直後、カナダ政府は約四〇名の日系人を危険人物として逮捕し、全日系人を敵性国人と規定した。翌一九四二年初頭には、日本国籍の日系男性の強制移動、短波ラジオ、カメラの所持禁止等の処分が決定実施され、二月の末には全日系人の防衛地域からの強制移動の発表へと事態は進展し、同年一一月までに(主としてブリティッシュコロンビア州から)約二万人にも及ぶ日系人の強制移動・強制収容及び財産の収奪等が行われた。大戦終了後にも日本への強制送還や選挙権剥奪等の処置が続いた。

2 このようなカナダ政府の措置に対しては、一九八〇年代初頭から日系人の手により、リドレス運動が展開され、日系人の強制収容が人種差別に基づく措置であることを告発してきた。このような運動の結果、一九八八年九月に至り、全カナダ日系人協会とカナダ政府との間で協定が結ばれた。

同協定では、カナダ政府が大戦中の日系人に対する措置が人権侵害であることを認め、同様な事態が再び起こらないことを誓った。そして、一連不正に対する象徴的補償として、個人補償金二万一〇〇〇ドルを一時金として支払い、全カナダ日系人協会を通じて日系カナダ人社会に一二〇〇万ドルをコミュニティの福利や人権の擁護に役立つ活動に対して支払い、カナダ人種関係基金を創設して異文化間の相互理解及び人種差別の根絶を推進する等の合意がなされた。

同協定に基づき、カナダ政府が、補償に関する問い合わせと申請のため、係官を日本に派遣したことは記憶に新しい。

五 日本における戦後処理の現状

これに対し、日本の戦後補償のあり方は、前述のような国際的潮流に遅れるものである。

1 一九五一年九月八日、日本はサンフランシスコ講和条約に調印した。アメリカの極東戦略が転換する中で調印された右条約では、日本の経済復興を図り、賠償の負担を軽減するために、連合国は、原則的に日本に対するすべての賠償請求権を放棄した。

翌一九五二年四月二八日に右条約が発効し、国家として独立すると、日本は、右放棄条項をてこに、次々とアジアの各国と二国間協定を締結した。ミャンマー(一九五四年一一月五日)、フィリピン(一九五六年五月九日)、インドネシア(一九五八年一月二〇日)及び南ベトナム(一九五九年五月一三日)との間ではそれぞれ平和条約と賠償協定を結び、ラオス、カンボジア、タイ、マレーシア、シンガポール、韓国及びミクロネシアには、戦後処理として賠償に準ずる無償援助、経済協力を行ってきた。

2 しかしながら、これらの各国における戦争被害者個人の被った損害については、戦後五〇年を経た今も、日本は、格別の補償措置を講じていないばかりか、公式の謝罪さえしていない。それどころか、かつての植民地から「日本人」として徴兵・微用・強制連行されたアジアの人々(なかんずく韓国・朝鮮人)に対しては、一九五二年四月一九日法務省民事局長通達をもって、サンフランシスコ講和条約により日本の「国籍」を喪失させたとして、「国籍」をたてに、日本の国内法による戦後補償立法からも排除してきた。

すなわち、被爆者援護に関する二つの法律を除き、一九五二年四月三〇日制定の戦傷病者遺族等援護法から、一九八八年制定の平和祈念事業特別基金に関する法律に至る一三の戦後補償立法のいずれにも国籍条項又は戸籍条項(以下「国籍要件」という。)を設け、外国籍の戦争被害者に対する右各援護立法の適用を排除して、かつての植民地から「日本人」として徴兵・徴用・強制連行されたアジアの人々に対する補償・賠償を一切なさぬまま放置してきたのである。

前述のような「内外国人平等主義」に基づく個人補償を基調とする国際的潮流にもかかわらず、未だ日本は、右国籍要件に固執し、外国人被害者に対する補償を拒んでいる。

3 被告は、以上に述べたように、軍事的威迫の下で強制的に調印させた乙巳保護条約(一九〇五年)や、この条約を根拠とする日韓併合条約(一九一〇年)の故をもって三六年間の朝鮮植民地支配を合法化することはできない。そして、自国の植民地であるという理由で戦時中、彼の地から軍事要員、労務要員等を軍人、軍属、軍夫、慰安婦、労務徴用者として恣意的に連行したこと自体が犯罪行為であった。そのうえ、軍役、労働等に従事させた態様がおよそ人間に対するそれでなく、戦場では特に敗戦間際に足手まといとして殺戮したり、慰安婦として働かせる等、およそ国としてあるまじきことを行い、また、労務徴用においては、強制貯金、未払賃金、労働災害の被害者(死者、負傷者)に対する全き無補償等、非道の限りを尽くした。この結果、三〇万人とも云われる軍人・軍属、八〇万人とも云われる労務徴用者、八万人とも云われる従軍慰安婦に対し、また、これに連なる家族、肉親等に対し、瘉し難い肉体的、精神的、生活的被害を与え、また、その被害今日に及んでいるのである。

被告は、明らかに、これらの被害者に対して責任、それも重大な責任がある。にもかかわらず、それは未だにほとんど全く償われていないのである。このような事情から、原告らは、裁判による救済を求めざるを得ないのである。

(別紙四) 被告の認否

一 原告らの主張第一(朝鮮人強制連行の実態)について

1 原告らの主張一1(韓国併合と植民地支配)のうち、

一八七五年にいわゆる江華島事件が起きたこと、日清戦争(一八九四年ないし一八九五年)及び日露戦争(一九〇四年ないし一九〇五年)があったこと、一九〇五年に日韓協約が締結されたこと、一九一〇年に「韓國併合ニ關スル絛約」が締結されたこと、いわゆる韓国併合後の統治形態として朝鮮総督府が設置されたこと、韓国内で土地調査事業が行われたこと、一九一九年にいわゆる三・一独立運動が起こったことは認める。

2 同2(戦争への動員)のうち、

(一) 一九三一年にいわゆる満州事変が起こったこと、一九三七年にいわゆる蘆溝橋事件が勃発したこと、朝鮮において氏の制度が創設されたこと、一九三八年に国家総動員法が公布され、一九三九年七月に国民徴用令(勅令第四五一号)が施行(朝鮮においては同年一〇月施行)されたことは認める。ただし、朝鮮ではその全面的な発動を避け、昭和一六年(一九四一年)に軍用員関係に適用され、昭和一九年(一九四四年)二月に朝鮮内の重要工場、事業場の現員徴用が行われ、同年九月以降朝鮮から日本各地へ送り出される労務者にも一般徴用が実施された。

一九三九年九月以降に自由募集方式による動員が始められたこと、一九四二年二月から官斡旋による動員が始まったことは認める。

(二) なお、朝鮮からの日本内地への労務動員の形態は、<1>自由募集による動員(昭和一四年九月から昭和一七年一月まで)、<2>官斡旋・隊組織による動員(昭和一七年二月から昭和一九年八月)、<3>国民徴用令による動員(昭和一九年九月以降)である。

<1>の自由募集による動員は、石炭、鉱山、土建等の事業主が、まず府県長官あてに許可申請書を提出し、当時労働行政を所管していた厚生省の査定認可を受け、次に朝鮮総督府の許可を受け、総督府の指定する地域で、自己の責任で労務者を募集し、募集された労務者は雇用主等に引率されて集団的に渡航就労するものであった。

<2>の官斡旋・隊組織による動員とは、事業主が府県知事に雇用願を提出して承認を得た後、総督府に朝鮮人労務者斡旋申請書を提出し、総督府が、これを承認した場合は地域を決定して通牒し、さらに、道が、職業紹介所及び府、郡、島を通じて、邑、画にまで割当てを決定して、労務者を選定取りまとめさせるというものであった。また、送出しに当たっては、雇用主等が隊組織に編成された労務者を引率渡航した。

(三) 慰安婦の募集については、軍当局の要請を受けた経営者の依頼により斡旋業者らがこれに当たることが多かったが、その場合も戦争の拡大とともにその人員の確保の必要性が高まり、そのような状況の下で、業者らがあるいは甘言を弄し、あるいは畏怖させる等の形で本人らの意向に反して集めるケースが数多く存したこと、一九三八年二月に陸軍特別志願兵令(昭和一三年勅令第九五号)が公布され、同年四月から施行されたこと、一九四三年七月に海軍特別志願兵令(昭和一八年勅令第六〇八号)が公布され、同年八月に施行されたこと、各施行日にそれぞれ朝鮮総督府陸軍兵志願者訓練所官制及び朝鮮総督府海軍兵志願者訓練所官制が施行され、兵役に服することを志願した者に対し、心身の鍛練その他の訓練を施していたこと、一九四三年にいわゆる学徒動員が実施されたこと、一九四二年五月八日に行われた閣議で昭和一九年(一九四四年)度から朝鮮において徴兵制を施行することが決定されたこと、一九四四年以降朝鮮において第一回及び第二回の各徴兵検査が実施されたことは認める。

二 原告らの主張第二(原告らに対する強制連行の実態及び原告らの損害等)について

原告ら又はその被相続人らの身分関係等に関する事実については、被告が保管している資料によれば、以下のとおりである。なお、以下で認否する者以外の原告ら又はその被相続人らについては、その身分及び被害状況についての資料がないので、認否はしない。

1 原告らの主張第二の二2(三)(原告朴菊希)について

朴章煥(日本名・森山章煥)の本籍地の記載事項は認める。同人の出生年月日は大正五年一〇月一五日であり、同人は、海軍軍属(工員)として、昭和一八年に芝浦海軍施設補給部、同月三〇日に第四海軍建築部に属し、昭和二〇年一〇月二七日トラック島で死亡した。

2 同二2(四)(原告崔徳雄)について

崔相準(日本名・高山相準)は、本籍地が江原道江陵郡注文律邑注文里五三〇で、出生年月日は大正八年一月一五日である。同人は、海軍軍属(船員)として、昭和一九年二月一〇日に「第二京進丸」に乗船していたと思われ、昭和二〇年四月三〇日にミンダナオ島山中において死亡した。

3 同二2(六)(原告鄭賛教)について

鄭然守(日本名・川本然守)の生年月日、本籍地の記載事項、厚生省援護局業務第二課が調査依頼されて原告らが引用する内容の回答をしたことは認める。

4 同二2(七)(原告南相億)について

南道熙(日本名・南道熙)は、本籍地が江原道春川郡北山面楸田里で、出生年月日は大正一一年八月一五日である。同人は、海軍軍属(工員)として、昭和一七年一一月二二日に第四海軍建築部東京支部、同月二三日に第四海軍建築部に属し、昭和二一年五月二一日復員した。

5 同二2(八)(原告朴元植)について

朴貴福(日本名・杉本政雄)は、本籍地が慶尚北道尚川郡咸昌面充直里六一〇で、出生年月日が明治三八年一二月一八日である。同人は、海軍軍属(工員)として、昭和一九年三月一五日に舞鶴海軍施設部、同月二一日に第二三五設営隊に属し、昭和二〇年五月二二日にネグロス島で死亡した。

6 同二3(一)(原告陳萬述)について

原告陳萬述(日本名・大原萬述)の出生年月日の記載事項は認める。同原告の本籍地は慶尚南道河東郡金南面鶏川里九九であり、同原告は、陸軍軍人として、昭和一八年徴集され、昭和一九年一月二五日に歩兵第一六八連隊、同年六月一〇日に歩兵第八〇連隊に属した。そして、時期、場所は不明であるが、入院していたとの事実が判明している。

7 同二3(二)(原告丁竜鎮)について

丁奎洙(日本名・海島秀武)は、本籍地が江原道華川郡下南面論味里三九一番地で、出生年月日は大正一三年一月一三日である。同人は、陸軍軍人として、昭和一九年一二月一〇日に歩兵第七八連隊補充隊、同月一七日に独立歩兵第二〇七大隊に属し、昭和二一年一月二三日に中国武昌において現地除隊されている。

8 同二3(三)(原告韓省愚)について

韓命愚(日本名・西原命愚)は、本籍地が江原道原州郡富論里面魯林里である。同人は、陸軍軍人として、昭和一三年徴集され、昭和一九年五月二日に輜重兵第三〇連隊に属し、昭和二〇年四月一六日ミンダナオ島バンコットにおいて死亡した。

三 原告らの主張第三(国際法違反と損害賠償)について

1 原告らの主張一(国際法の最近の動向)のうち、

国際連合差別防止・少数者保護小委員会のテオ・ファンボーヴェン氏に対する特別報告者への任命及び同氏による報告書の提出についての主張は、決議番号を除いて認める。正しい決議番号は一九八九/一三である。

2 原告らの主張二2(国連による国際法の原則の確認)について

(一) (三)項のうち、国連経済社会理事会の一九五一年三月一九日決議三五三(第一二会期)中に、原告ら主張内容の一節が含まれていることは認める。なお、同決議においては、何ら「人道に対する罪」については触れられていない。

(二) (五)項のうち、安全保障理事会決議六八七の存在は認める。ただし、同決議主文一六は、「イラクは、同国による不法なクウェイト侵攻及び占領の結果生じた外国の政府、国民及び企業に対するいかなる直接の損失、損害(環境に係る損害及び天然資源の消耗を含む。)又は侵害についても国際法上の責任を負うことを再確認する」旨定めているものである。

国連人権委員会が、一九九一年決議六七により、特別報告者を任命してイラク占領下のクウェイトにおける、イラクの侵攻・占領軍による人権侵害についての調査を依頼したことは認めるが、同委員会が同年決議七四によりイラク占領下のクウェイトにおける人権侵害について報告を求めたとの点は否認する。同委員会の同年決議七四は、イラク国内の問題(例えば、クルドに対する人権侵害問題)を調査するための特別報告者を任命するものである。

国連賠償委員会において、国民に対するイラクによる直接の損失、損害又は侵害に、「重大な身体の傷害又は死亡」も挙げられており、これには、性的暴力、拷問、人質行為等に起因する肉体的又は精神的傷害も含まれていることは認める。しかしながら、国連賠償委員会への個人の損害に係る請求は、通常、政府、国家機関を通じて提出されることとされている(ただし、政府を通じて請求できない状況にある個人については、賠償理事会が要請する適当な個人、機関が請求する。)。

3 原告らの主張二3(国際人権条約・規約の侵害による損害賠償)について

(一) (二)項のうち、B規約の二条3(a)に原告ら引用と同旨の規定があることは認める。しかしながら、B規約上の権利の侵害についての個人からの通報を受理し、かつ検討するB規約人権委員会の権限は、B規約の選択議定書に基づくものであるが、同委員会は、その意見(選択議定書五条4)において、B規約二条3に基づく損害賠償のための適切な措置を当該締約国に対し必ず求めるとは限らず、また、同委員会の意見には法的拘束力がないので、原告らの主張は正確ではない。

なお、我が国は、右選択議定書を締結していないので、我が国の管轄の下にある個人が右通達を行うことはできず、したがって、我が国に関する通報が検討されることはない。

(二) (三)項のうち、ヨーロッパ人権条約五〇条に、概ね原告ら引用の内容の規定が存在することは認める。

(三) (四)項のうち、原告らが引用している米州人権条約六三条一項に米州人権裁判所の任務に関する規定があることは認める。ただし、同条項は、「裁判所は、この条約が保護する権利又は自由の侵害があったことを認定する場合、被害当事者が侵害された権利又は自由の享有を保障されるよう裁定しなければならない。適切な場合には、裁判所はまた、かかる権利又は自由の侵害を構成した措置又は事態の結果が救済され、また正当な補償が被害当事者に支払われるよう裁定しなければならない。」と規定しているものであり、補償について規定する後段には、「適切な場合には」との留保があり、原告らが右規定を引用して述べているように「この条約が保護する権利又は自由の侵害が存在すると認定されるとき」、補償が当然のこととして支払われるわけではないと思われる。

4 原告らの主張二4(国際法の原則と実定法)のうち、

「拷問禁止条約」の一四条1及び2に、それぞれ原告ら引用の内容の規定があることは認める。右一四条2が損害賠償の権利について、国内法によるものと、同条約によるものとが存在することを明言していることは争う。用語の通常の意味に従えば、被害者が国内法に基づいて有する権利に対して、同条約が影響を及ぼすものではないことを規定しているにすぎないものである。

一九九二年二月二八日国連人権委員会が承認した「強制的失踪からすべての人を守る宣言草案」の五条及び一九条にそれぞれ原告ら引用の内容の規定があることは認める。

5 原告ら主張三(明治憲法下における国際法の国内的効力)のうち、

明治憲法一三条に「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」との規定があったことは認める。

6 原告ら主張四1(請求の根拠となる国際法)のうち、

我が国が奴隷条約を締結していないことは認める。

7 原告ら主張四2(奴隷の状態又は隷属状態におかれない自由と権利の侵害)について

(一) (一)項のうち、奴隷条約が一九二六年に作成され、一九二七年に発効したこと、「奴隷制廃止補足条約」が一九五六年に作成され、一九五七年に発効したこと、「奴隷制廃止補足条約」について奴隷条約同様我が国が締結していないことは認める。

(二) (二)項のうち、奴隷条約の一条に原告ら引用の内容の規定があり、同条約が奴隷制度と奴隷取引の禁止の観点から種々の規定を設けていること、世界人権宣言の四条に概ね原告ら引用の内容の規定があること、奴隷条約の五条に原告ら引用の内容の規定があることは認める。

8 原告ら主張四3(人道に対する罪の侵害)について

(一) (一)項のうち、我が国が一九四九年以前のジュネーヴ条約を批准していないことは否認する。我が国は、「赤十字絛約」(一八六四年)、「戦地軍隊ニ於ケル傷者及病者ノ状態改善ニ關スル絛約」(一九〇六年)及び「戦地軍隊ニ於ケル傷者及病者ノ状態改善ニ關スル千九百二十九年七月廿七日ノ『ジュネーヴ』絛約」(一九二九年)の締約国である。

(二) (二)項のうち、ヴェルサイユ条約(同盟及聯合国ト獨逸國トノ平和絛約)に第一次世界大戦のドイツの戦争責任者に関する規定があることは認める。しかしながら、右規定は「人道に対する罪」に基づいて個人の国際法上の責任を追及しているわけではない。

(三) (三)項のうち、ニュールンベルグ国際軍事裁判所条例において、「人道に対する罪」は概ね原告ら主張のように定められていることは認める。

(四) (四)項のうち、陸戰ノ法規慣例ニ關スル絛約(一九〇七年)三条は、「前記規則(陸戰ノ法規慣例ニ關スル規則)ノ絛項ニ違反シタル交戰當事者ハ損害アルトキハ之カ賠償ノ責ヲ負フヘキモノトス」旨定めていることは認める。なお、「人道に対する罪」を規定する条項は同規則には存在しない。

同条約三条は、交戦当事者の軍隊構成員の同規則違反行為に起因する損害に対する国家間の賠償責任を規定したものであり、個人が同規定に基づき、直接外国に対して賠償又は補償を請求し得ることを定めたものではない。

9 原告ら主張四4(強制労働に関する条約違反)について

(一) (二)項のうち、一九三〇年六月二八日国際労働機関の第一四回総会において、「強制勞働ニ關スル絛約(第二九号)」並びに「間接の労働強制に関する勧告(第三五号)」及び「強制労働の規律に関する勧告(第三六号)」が採択されたことは認める。我が国が同条約を国内手続上批准したのは一九三二年一〇月一五日であり、また、国際連盟事務局に同条約の批准の登録をしたのは同年一一月二一日である。なお、同条約の批准国数は、一九九三年六月一日現在、一三〇か国であると承知している。

(二) (三)項のうち、「強制勞働ニ關スル絛約」二条一項に原告ら引用の規定があることは認める。

四 原告らの主張第四(戦後補償の国際的潮流)について

1 原告らの主張二(ドイツ)について

(一) 1項のうち、一九五〇年「戦争犠牲者の援護に関する法律」が制定され、ドイツ軍における勤務中の傷病に対する年金等の支給措置がとられたこと、同法八条に原告ら主張の裁量行為を認める規定があることは認める。

(二) 3項のうち、一九五六年に連邦「補償」法が制定され、同法一条に規定する被害者に一定の給付がなされていること、一九五七年に連邦「返還」法が制定され、ナチスによる動産及び不動産の収用に対する賠償措置が定められたこと、一九五二年にドイツ連邦共和国とイスラエル国との間で、ナチス体制下にユダヤ人に対して言葉に表せない犯罪的行為が行われたことにかんがみ、ユダヤ人難民のイスラエル定住及び社会復帰を支援するための資金をドイツ政府が供与する旨の協定が署名(一九五三年批准)されたことは認める。

(三) 4項のうち、ドイツ連邦共和国が欧州諸国(西欧一二か国、東欧四か国)と補償協定を締結したことは認める。なお、これらの協定は、ドイツ連邦共和国政府がナチスの迫害の被害者に対して支援を行うべく人道的見地から行った自主的措置であると承知している。

(四) 6項のうち、一九八五年五月八日、ヴァイツゼッカー大統領が終戦四〇周年に当たって、ドイツ連邦議会において行った演説に、原告ら引用の趣旨の一節が含まれていたこと、一九九二年二月ドイツ連邦共和国政府の拠出により、ポーランドに和解基金が設立されたことは認める。なお、同基金の性格は、ナチスの迫害による犠牲者に対する人道的支援のためのものと承知している。

2 原告らの主張三(アメリカ合衆国)のうち、

一九四二年二月一九日付けの大統領行政命令第九〇六六号を根拠に日系人が強制的に移転、収容されたところ、この問題に対し、一九八八年に「一九八八年市民自由法」が制定され、議会が国を代表して謝罪するとともに、補償と研究・公教育活動等のための基金を設ける旨を定め、実際に一九九〇年一〇月より一人当たり二万ドルの補償金の支払いが開始され、右支払いに際して原告ら主張の一節の趣旨を含むブッシュ大統領からの手紙が手交されたことは認める。

3 原告らの主張四(カナダ)のうち、

カナダにおける日系人の強制的な移転、収容等については、一九八八年九月に、マルルーニー首相が下院議会において、日系人に謝罪する旨の演説を行うとともに、全カナダ日系人協会とカナダ政府との間で、カナダ政府は、日系人に対する右措置が人権侵害であることを認め、同様な事態が再び起こらないよう努めることを誓い、日系人被害者に対して一人当たり二万一〇〇〇カナダドルの補償の支払いを行う旨の合意文書に署名が行われ、その後政令の施行により、日系人被害者に対する補償が行われてきたことは認める。

4 原告らの主張五(日本における戦後処理の現状)のうち、

(一) 一九五一年九月八日に日本国が「日本国との平和条約」に署名し、一九五二年四月二八日に同条約が効力を発生したことは認める。

(二) なお、日本国と各国・地域との協定等については以下のとおりである。

ミャンマーとの間では、「日本国とビルマ連邦との間の平和条約」及び「日本国とビルマ連邦との間の賠償及び経済協力に関する協定」が昭和二九年二月五日に署名され、日本国はこれに基づいて賠償及び経済協力を行った。

フィリピンとの間では、昭和三一年五月九日、「日本国とフィリピン共和国との間の賠償協定」が署名され、日本国はこれに基づいて賠償を行った。

インドネシアとの間では「日本国とインドネシア共和国との間の平和条約」及び「日本国とインドネシア共和国との間の賠償協定」が昭和三三年一月二〇日に署名され、日本国はこれに基づいて賠償を行った。

ヴェトナム共和国(いわゆる南ベトナム)との間では、「日本国とヴェトナム共和国との間の賠償協定」が昭和三四年五月一三日に署名され、日本国はこれに基づいて賠償を行った。

タイとの間では、「特別円問題の解決に関する日本国とタイとの間の協定」(昭和三〇年七月九日署名)及び「特別円問題の解決に関する日本国とタイとの間の協定のある規定に代わる協定」(昭和三七年一月三一日署名)を締結した。

ラオス、カンボディア、マレイシア、シンガポール、韓国には、戦後、二国間協定に基づき無償援助等経済協力を行い、ミクロネシア地域については「米国とのミクロネシア協定」に基づき、ミクロネシア地域の住民の福祉のために使用される一定額を無償で米国の使用に供した。

(別紙五) 安全配慮義務違反

一 労働者に対する安全配慮義務違反

国家総動員法、国民徴用令等により被告の強制徴用による強制連行を受け、あるいは、朝鮮人労働者募集要綱、朝鮮人労働者移住に関する事務取扱手続、朝鮮人内地移入斡旋要綱等により被告の強制連行を受けて労務を強制された労働者原告らは、一九三八年五月、被告により国家総動員法が施行されて以降の完全な戦時体制の下、戦局の深刻化に従って労務要員の確保と充足のため労務管理が被告の統制下におかれる中、被告により、募集、斡旋、徴用という名目の下に強制連行され、戦時中の労務を強制されたものである。このように労働者原告らは、非常時局、戦時体制という状況下、被告の国策として強制連行され、労務を強制されたものであるから、そもそも安全配慮義務が、ある法律関係に基づいて特別な社会的関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随義務として信義則上、一般的に認められるべきものである点に鑑みると、被告は、労働者原告らとの間に直接の雇用契約関係にはない場合にも、労働者原告らに対し、その生命、身体、健康及び財産等を危険から保護するよう配慮すべき義務(安全配慮義務)を負っていた。

また、労働者原告らのうち、被告が指揮監督する工場、現場等で労務を強制された者については、被告がこれらの者との間に直接の雇用契約関係にはない場合にも、被告と元請企業、元請企業と下請企業との各請負契約及び下請企業と下請労働者との雇用契約等を媒介として間接的に成立した法律関係に基づいて、特別な社会的接触の関係に入ったものであるから、被告はこれらの者が当該労務を提供する過程において、前記安全配慮義務を負っていた。

労働者原告らに対する具体的な安全配慮義務違反は、以下のとおりである。

1 原告金景錫(被害者金景重)

原告金景錫は、一九四二年一〇月ころ、被告により日本鋼管株式会社川崎製鉄所に徴用され強制連行された。その後、同原告は、強制的に被告の従属下に置かれ、右川崎製鉄所において強制労働に従事させられ、一九四三年四月中旬ころ、朝鮮人が行ったストライキに参加したという理由で、被告の憲兵、警察官等から二、三日にもわたる拷問、暴行を受けて左腕脱臼、右肩骨折等の傷害を負い、右受傷を原因とする右腕習慣性脱臼及び右肩慢性痛の後遺症が残った。

また、金景重は、一九四二年一一月ころ、被告により炭鉱に徴用されて、強制連行された。その後、同人は、強制的に被告の従属下に置かれ、北海道炭鉱汽船株式会社夕張炭鉱において石炭採掘の強制労働に従事させられ、夕張市社光町六番地所在の同社の病院において死亡した。

2 原告宋有福

原告宋有福は、一九四三年三月ころ、被告により炭鉱に徴用されて強制連行された。その後、同原告は、強制的に被告の従属下に置かれ、福岡県所在赤池炭鉱において石炭採掘の強制労働に従事させられ、作業中の事故が原因で頭部、耳等を負傷し、耳が聞こえないという後遺症が残った。

3 原告劉永洙(被害者劉鐘)

劉鐘は、一九四二年ころ、被告により労働者として徴用されて強制連行された。その後、同人は、強制的に被告の従属下に置かれ、山口県の鉄鋼工場において強制労働に従事させられ、その後現在に至るまで消息は不明である。

4 原告盧道川(被害者盧玉童)

盧玉童は、一九四五年六月ころ、被告により徴用されて強制連行された。その後、同人は、強制的に被告の従属下に置かれ、福岡県の炭鉱において石炭掘削の強制労働に従事させられ、その最中、坑内事故により重傷を負い、右受傷が原因で一九四九年ころ死亡した。

5 原告盧道日(被害者盧鳳南)

盧鳳南は、一九四三年一一月二二日ころ、被告により徴用されて強制連行された。その後、同人は、強制的に被告の従属下に置かれ、北海道又は九州の炭鉱において石炭採掘の強制労働に従事させられ、その最中、爆撃により死亡した。

6 原告白官周(被害者白弘周)

白弘周は、一九四四年一二月三〇日ころ、被告により炭鉱に徴用されて強制連行された。その後、同人は、強制的に被告の従属下に置かれ、福岡県嘉穂郡上山田炭鉱において石炭採掘の強制労働に従事させられ、その最中、炭鉱事故が原因で同炭鉱の金剛寮において死亡した。

7 原告池東萬(被害者池丁山)

池丁山は、一九四三年九月ころ、被告により炭鉱に徴用されて強制連行された。その後、同人は、強制的に被告の従属下に置かれ、北海道炭鉱汽船株式会社夕張炭鉱において石炭採掘の強制労働に従事させられ、その最中落盤事故により全身打撲、足骨折等の傷害を負い、右受傷が原因で一九四四年一〇月ころ死亡した

8 原告金昌淳(被害者金龍寛)

金龍寛は、一九四三年四月ころ、被告により労働者として徴用されて強制連行された。その後、同人は、強制的に被告の従属下に置かれ、九州にある吉隈鑛業所において強制労働に従事させられ、坑内作業中の落盤事故によって死亡した。

9 原告洪淳棋(被害者洪淳祚)

洪淳祚は、一九四一年二月一〇日ころ、被告により労働者として徴用されて強制連行された。その後、同人は、強制的に被告の従属下に置かれ、青森県の鉄工所において強制労働に従事させられ、その後現在に至るまで消息は不明である。

10 原告李相翼(被害者李奇淳)

李奇淳は、一九四四年ころ、被告により労働者として徴用されて強制連行された。その後、同人は、強制的に被告の従属下に置かれ、北海道の炭鉱において強制労働に従事させられ、坑内作業中の崩落事故に遭遇し、坑内救出作業が継続されていたにもかかわらず横の坑道を保護するという理由で坑口を塞がれたため、死亡した。

11 原告李相禮(被害者李庚淳)

李庚淳は、一九四二年四月末日ころ、被告により労働者として徴用されて強制連行された。その後、同人は、強制的に被告の従属下に置かれ、北海道にある炭鉱所において強制労働に従事させられ、その後現在に至るまで消息は不明である。

二 軍属に対する安全配慮義務違反

軍属被告らは、被告に雇用され、軍隊の管理下にあって一定の業務に従事するものであり、その業務は軍隊の戦略、戦闘活動と密接な関連を有するとはいえ、軍人と異なり、あくまで非戦闘員であって、軍属原告らと被告との関係もその具体的な職務内容からみて、通常の雇用関係である。したがって、被告は、軍属原告らに対し、給与支払義務を負う以外に、被告が軍務等の公務遂行のために設置すべき場所、施設若しくは器具等の設置管理又は軍属原告らが被告若しくは上官の命令、指示の下に遂行する軍務、公務の管理にあたって、軍属原告らの生命、身体、健康及び財産等を危険から保護するよう配慮すべき義務(安全配慮義務)を負っていた。

しかも、軍属原告らは、天皇の陸海軍に対する統帥権(明治憲法一一条)の下、陸軍刑法、海軍刑法を始めとする法令及び上官の命令に従うべき義務(陸軍刑法五七条、海軍刑法五五条等)を刑罰をもって強制されるのであるから、被告の負う安全配慮義務の程度は、これに対応して、通常の雇用契約に比しより一層高度となる。

軍属原告らに対する具体的な安全配慮義務違反は、以下のとおりである。

1 原告全金

原告全金は、一九四四年五月四日ころ、被告により海軍軍属に徴用されて強制連行された。その後、同原告は、強制的に被告の従属下に置かれ、北千島列島において飛行場建設作業に従事させられ、右強制労働中に肋膜炎及び脚気を患い、そのため背中の痛み、歩行障害、精神的不安定等の後遺症がある。

2 原告朴大興

原告朴大興は、一九四三年一月六日ころ、被告により海軍軍属に徴用されて強制連行された。その後、同人は、強制的に被告の従属下に置かれ、一九四五年二月一〇日ころ、地下壕建設作業に従事させられ、大八車を引かされている時に、倒れて大八車の下敷きとなり、胸椎骨損傷の重篤な傷害を負い、右受傷を原因とする頭痛、耳鳴り、右親指の突出等の後遺症が残った。

3 原告朴菊希(被害者朴章煥)

朴章煥は、一九四二、三年ころ、被告により海軍軍属(工員)に徴用されて強制連行された。その後、同人は、強制的に被告の従属下に置かれ、一九四三年六月二九日に芝浦海軍施設補給部、同月三〇日に第四海軍建築部に所属させられ、一九四五年一〇月二七日トラック島で死亡した。

4 原告崔徳雄(被害者崔相準)

崔相準は、一九四三年ころ、被告により海軍軍属(船員)に徴用されて強制連行された。その後、同人は、強制的に被告の従属下に置かれ、一九四四年二月一〇日に「第二京進丸」に乗船させられ、一九四五年四月中旬ないし同月三〇日ころ、ミンダナオ島ダバオ市外において死亡した。

5 原告鄭聖祚(被害者尹成模)

尹成模は、一九四〇年一月二〇日ころ、被告により海軍軍属に徴用されて強制連行された。その後、同人は、強制的に被告の従属下に置かれ、南トラック島に送られて作業中、米軍の空襲により両上肢及び背中に破片を受け、治療も受けられないまま一九四三年一〇月一五日に帰国させられたが、右受傷が原因で一九六七年ころ死亡した。

6 原告崔鄭賛教(被害者鄭然守)

鄭然守は、一九四二年一一月中旬ころ、被告により海軍軍属に徴用されて強制連行された。その後、同人は、強制的に被告の従属下に置かれ、同月三〇日、呉海軍建築部工員(海軍工員)として第一九設営隊に派遣され、翌一九四三年二月二二日、ニューギニアにおいて死亡した。

7 原告南相億(被害者南道熙)

南道熙は、一九四一年ころ、被告により海軍軍属に徴用され、日本人警察官に拷問を受け、全身打撲の状態で強制連行された。その後、同人は、強制的に被告の従属下に置かれ、一九四二年一一月二二日に第四海軍建築部東京支部、同月二三日第四海軍建築部工員として、南洋群島ナオール島の飛行場建設に動員され、飢えとアメリカ軍の爆撃の中で昼夜の別なく飛行場作りの徹底的な強制労働に従事させられ、健康を害された。同人は、一九四六年ころ、病弱の身で故郷に帰ったが、連行時の酷使が原因でその日から病の床につき、一九八九年ころ死亡した。

8 原告朴元植(被害者朴貴福)

朴貴福は、一九四二年ころ、被告により海軍軍属(工員)に徴用されて強制連行された。その後、同人は、強制的に被告の従属下に置かれ、一九四四年三月一五日に舞鶴海軍施設部、同月二一日第二三五設営隊に所属させられ、一九四五年五月二二日ころ、ネグロス島で死亡した。

9 原告厳在澗(被害者厳大変)

厳大変は、一九四二年一二月(陰暦)ころ、被告により陸軍軍属に徴用されて強制連行された。その後、同人は、強制的に被告の従属下に置かれ、山口県岩国市所在五百五十岩国燃料所において強制労働に従事させられ、右強制労働中の一九四五年五月一〇日ころ死亡した。

10 原告李運範(被害者李啓成)

李啓成は、一九四二年二月ころ、被告により海軍軍属に徴用されて強制連行された。その後、同人は、強制的に被告の従属下に置かれ、南洋群島方面において輸送業務・飛行場建設工事業務等の強制労働に従事させられ、強制連行中に死亡した。

三 軍人に対する安全配慮義務違反

軍人原告らは、被告との間における主要な義務として、天皇の陸海軍に対する統帥権(明治憲法一一条)の下、陸軍刑法、海軍刑法を始めとする法令及び上官の命令に従うべき義務(陸軍刑法五七条、海軍刑法五五条等)を刑罰をもって強制され、被告はこれに対応して、軍人原告らに対し給与支払義務を負うのであるが、被告の義務は右の給付義務にとどまらず、被告は軍人原告らに対し、被告が軍務等の公務遂行のために設置すべき場所、施設若しくは器具等の設置管理又は軍人原告らが被告若しくは上官の命令、指示の下に遂行する軍務、公務の管理にあたって、軍人原告らの生命、身体、健康及び財産等を危険・被害から保護するよう配慮すべき義務(安全配慮義務)を負っていた。

軍人原告らに対する具体的な安全配慮義務違反は、以下のとおりである。

1 原告陳萬述

原告陳萬述は、一九四三年八月ころ、被告により陸軍軍人に徴用されて強制連行された。その後、同原告は、強制的に被告の従属下に置かれ、第一朝鮮第二四部隊第五中隊佐藤隆隊に入隊させられ、一九四四年一月二五日に歩兵第一六八連隊、同年六月一〇日に歩兵第八〇連隊に所属させられ、同年一一月一九日ころ、中国雲南省庶放において、糧秣受領中に投下爆弾の破片により左上膊部・右背胸部骨折投下爆弾破片創兼両側臀部育管投下爆弾破片創の傷害を負った。

原告陳萬述は、負傷後、右片肺と右膝に弾丸の破片を抱え、患部が腐るのにまかせ、松葉杖をついて自力で移動せざるを得なかった。そして、一九四六年三月一〇日ようやくノンホイの第百五兵站病院分院にたどりついたが、同病院で治療中の同年四月一〇日、朝鮮台湾人特別収容所へ強制移送のためやむなく退院させられ、その後、日本軍坂田七郎の指揮下、英国船舶により仁川港に送られ帰国した。

当時の原告陳萬述の症状は、<1>左肩胖胖下部に長さ七厘、幅三厘のはん痕が残り、左肩胖関節の運動に障害が残り、<2>左上膊下端伸側に小児手挙大の物質の欠損があり、<3>左肘関節、左手の拇指小指に障害があって、左小指の関節は屈伸運動ができないというものであった。

2 原告丁竜鎮(被害者丁奎洙)

丁奎洙は、一九四三年四月ころ、被告により陸軍軍人に徴用されて強制連行された。その後、同人は、強制的に被告の従属下に置かれ、朝鮮竜山部隊に入隊させられた後、上海において死亡した。

3 原告韓省愚(被害者韓命愚)

韓命愚は、一九三八年ころ、被告により陸軍軍人に徴用されて強制連行された。その後、同人は、強制的に被告の従属下に置かれ、一九四四年五月二日には輜重兵第三〇連隊に所属させられ、一九四五年四月一六日ころ、ミンダナオ島バンコットにおいて死亡した。

(別紙六) 安全配慮義務違反(予備的主張分)

一 労働者に対する安全配慮義務違反

1 原告金景錫

被告は、被強制連行者である原告金景錫に対し、拷問、暴行を行わず、傷害を負わせず、また、受傷後においては後遺症が残らないよう充分な治療を施すべき義務があったにもかかわらず、故意又は過失によってこれを怠ったものである。

2 原告宋有福

被告は、被強制連行者である原告宋有福に対し、炭鉱事故が発生しないよう充分に配慮し、炭鉱事故による受傷後は後遺症が残らないよう充分な治療を施すべき義務があったにもかかわらず、故意又は過失によってこれを怠ったものである。

3 原告盧道川(被害者盧玉童)

被告は、被強制連行者である盧玉童に対し、坑内事故が発生しないよう充分に配慮し、坑内事故による受傷後は死亡しないよう充分な治療を施すべき義務があったにもかかわらず、故意又は過失によってこれを怠ったものである。

4 原告盧道日(被害者盧鳳南)

被告は、被強制連行者である盧鳳南に対し、空襲から退避した後、安全が確認されるまで退避を継続するよう指示すべき義務があったにもかかわらず、故意又は過失によってこれを怠ったものである。

5 原告白官周(被害者白弘周)

被告は、被強制連行者である白弘周に対し、炭鉱事故が発生しないよう充分に配慮し、炭鉱事故による受傷後は死亡しないよう充分な治療を施すべき義務があったにもかかわらず、故意又は過失によってこれを怠ったものである。

6 原告池東萬(被害者池丁山)

被告は、被強制連行者である池丁山に対し、落盤事故が発生しないよう充分に配慮し、落盤事故による受傷後は死亡しないよう充分な治療を施すべき義務があったにもかかわらず、故意又は過失によってこれを怠ったものである。

7 原告金昌淳(被害者金龍寛)

被告は、被強制連行者である金龍寛に対し、落盤事故が発生しないよう充分に配慮すべき義務があったにもかかわらず、故意又は過失によってこれを怠ったものである。

8 李相翼(被害者李奇淳)

被告は、被強制連行者である李奇淳に対し、崩落事故の発生後、坑内救出作業を継続し、坑口を塞がない義務があったにもかかわらず、故意又は過失によってこれを怠ったものである。

二 軍属に対する安全配慮義務違反

1 原告全金

被告は、被強制連行者である原告全金に対し、肋膜炎、脚気に罹らないよう、強制労働の時間・程度を軽減し、充分な食事を供給し、罹患後は後遺症が残らないよう充分な治療を施すべき義務があったにもかかわらず、故意又は過失によりこれを怠ったものである。

2 原告朴大興

被告は、被強制連行者である原告朴大興に対し、充分な作業訓練を施し、大八車を引いているときに倒れて大八車の下敷きにならないよう、大八車・地下壕建設現場の通路を整備し、充分な食事を供給し、作業班長山本某に私的制裁を加えさせないよう監督し、受傷後には充分な治療を施すべき義務があったにもかかわらず、故意又は過失によってこれを怠ったものである。

3 原告朴菊希(被害者朴章煥)

被告は、被強制連行者である朴章煥が餓死しないよう、充分な食事を供給すべき義務あがったにもかかわらず、故意又は過失によってこれを怠ったものである。

4 原告崔徳雄(被害者崔相準)

被告は、被強制連行者であり、軍属に過ぎない崔相準に対し、武力行使の及ばない場所に退避させるべき義務があったにもかかわらず、故意又は過失によってこれを怠ったものである。

5 原告鄭聖祚(被害者尹成模)

被告は、被強制連行者であり、軍属に過ぎない尹成模に対し、武力行使の及ばない場所に退避させ、受傷後は後遺症が残らないよう充分な治療を施すべき義務があったにもかかわらず、故意又は過失によってこれを怠ったものである。

6 原告崔鄭賛教(被害者鄭然守)

被告は、被強制連行者であり、軍属に過ぎない鄭然守に対し、武力行使の及ばない場所に退避させるべき義務があったにもかかわらず、故意又は過失によってこれを怠ったものである。

7 原告南相億(被害者南道熙)

被告は、被強制連行者である南道熙に対し、拷問を加えず、健康を害さず、病気に罹らないよう、強制労働の時間・程度を軽減し、罹患後は死亡しないよう充分な治療を施すべき義務があったにもかかわらず、故意又は過失によってこれを怠ったものである。

8 原告朴元植(被害者朴貴福)

被告は、被強制連行者である朴貴福に対し、病気に罹らないよう充分に配慮し、罹患後は充分な治療を施して死亡しないよう配慮する義務があったにもかかわらず、故意又は過失によってこれを怠ったものである。

9 原告厳在澗(被害者厳大変)

被告は、被強制連行者であり、軍属に過ぎない厳大変に対し、武力行使の及ばない場所に退避させるべき義務があったにもかかわらず、故意又は過失によってこれを怠ったものである。

10 原告李運範(被害者李啓成)

被告は、被強制連行者であり、軍属に過ぎない李啓成に対し、武力行使の及ばない場所に退避させるべき義務があったにもかかわらず、故意又は過失によってこれを怠ったものである。

三 軍人に対する安全配慮義務違反

1 原告陳萬述

被告は、被強制連行者である原告陳萬述に対し、武力行使の及ばない場所に退避させ、受傷後は速やかに治療を受けられる場所に輸送し、後遺症が残らないよう治療を施すべき義務があったにもかかわらず、故意又は過失によってこれを怠ったものである。

2 原告丁竜鎮(被害者丁奎洙)

被告は、被強制連行者である丁奎洙に対し、武力行使の及ばない場所に退避させるべき義務があったにもかかわらず、故意又は過失によってこれを怠ったものである。

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